衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月02日    火曜日     第5 回の開示 合計10回の開示

精思は参禅と止観に等価である

世俗法の中に「精思は入神できる」という言葉がある。精思とは深く細かい思惟であり、それによって定と止を得ることができる。これは観から止に入るものである。止からまた深く観察することができ、止観等持し、止観が互いに助け合う。私たちが経を読む時、深くゆっくりとその中の一言、一つの義理を考え、すべての注意力をこの言葉に集中させ、定力を引き出し、この定力を借りて、観行思惟を非常に深く細かく行うことができる。そして未到地定に入ることができ、また有覚有観の初禅に入ることができ、有覚無観の初禅から二禅の間の定に入ることもでき、さらに有覚無観の中の覚を滅ぼせば、二禅に入ることができる。

観行し、一つの法義を深く細かく思惟すれば、入定が速く、定力の向上も速く、道理を理解するのも速く、思惟定の中で、身心ともに愉悦で、精力的である。定力を高めたいならば、人に邪魔されない時を見つけて、観行思惟を一、二時間行えば、定慧が同時に生じ、身心が安穏になることがわかる。本当に定を修めることができず、深く細かい思惟観行ができない場合は、福徳がまだ足りないのである。福徳が深刻に不足していると、足踏みして前に進めなくなる。福徳を増やしたいならば、大きな願いを多く発し、他人のことを多く考え、私心や慢心を少なくし、性障を減らすことで福徳を増やすことができる。

深く考える法義は、大きな方向としては皆同じである。具体的な法義については、皆が直面するものはそれぞれ異なり、自分が今解決できない疑問がある。この疑問を深く心に懸け、思惟観行し、心の念々がこの疑問の上にあり、他のことに気を取られず、これが定である。この定があれば、さらに深く細かく思惟して、疑問を徐々に解決することができる。

私たちが福徳を十分に修めれば、定を修めるのは難しくなく、一切の法を修行するのも難しくない。そして私たちの清浄な大願が発せられれば、福徳の集まりは速く、性障煩悩が降伏できれば、福徳の集まりも速くなる。このように仏菩薩の加持の力は大きく、私たちの道業の進歩は速くなる。皆、心の念々が常に「私」であってはならず、何かといえばすぐ「私」であってはならず、すべてのことにおいて自分を突出させ、表に出してはならない。そうでなければ仏菩薩の加持の力は非常に小さくなる。なぜなら、このような人は仏教や衆生に対してあまり役に立たず、加持されても自分のためであり、個人の利益だけを考えているから、このような人には仏菩薩の力は加持されない。

定力がまだ修められていない人は、自分の福徳が既に具足しているかどうか、自分の煩悩性障が既に軽減しているかどうか、自分の心の中に貪着するものがまだ多く、気にかける人や物事が多く、心に留めることが多く、普段多くのことが手放せず、心の念々が世俗法であり、心が落ち着いていないかどうかを多く検査しなければならない。また自分の願いの力が足りないかどうか、ただご縁に従って日々を過ごし、方向や目標がないかどうかも検査しなければならない。検査してから、これらの不足を補い、自分の性障煩悩を努力して取り除く方法を考えなければならない。検査しても克服できない場合は、多く楞厳呪を唱え、仏菩薩や護法神によって自分を加持させる。

私たちの今の修行目標は自分の性障煩悩を降伏し、自分自身を多く検査し、自分の不足を探し、自分を修め、皆で和やかに付き合い、自分の言葉に気をつけて人を傷つけないようにする。他人に間違いがあれば、できるだけ善巧方便を使って他人を助ける。他人に間違いがないのに批評や非難をすれば、自分の福徳を損ない、他人には有利であるが、自分は一部の業を背負うことになる。私たちの福徳はすべての気づかない間に流出し、自分では全く気づかない。何事にも強気で、口を挟まなければならない、私心や慢心が強いと、自分の福徳を損なう。謙虚で穏やかであることこそが福であり、できるだけ自分を降伏させる。自分を降伏させることは非常に難しいが、やらなければならない。福徳の大きい人は、煩悩も軽微で、慢心も軽微である。自分の悪い念が少なくないことを知る人は自覚のある人であり、意識の五十一心所法の中で悪法は善法よりはるかに多いので、皆自分がとても良いと思ってはならず、自信満々で自分がすべて良くて正しいと思ってはならない。そうでなければ、もう進歩できなくなる。

——生如法師の開示
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