衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月27日    土曜日     第2 回の開示 合計105回の開示

意識の力だけでは我見を断つには不十分である

ある人が文殊師利菩薩に尋ねた。「生は無生の理であることを知りながら、なぜまだ生に縛られるのですか。」文殊菩薩は答えた。「其力未充。」

明知はどの識ですか。其力未充はどの識ですか。明知するのは意識です。意識はいくつかの道理を知っていますが、役に立ちません。依然として生死に縛られるのです。なぜなら意識が主張して決定できないからです。其力未充のは意根です。意識の思想観念がまだ意根に届いていないので、意根が認めなければ、現状を変える力がないのです。肝心なのは意根がこの真理を認知できるかどうか、惑を断ち、執を断ちできるかどうかです。意根が惑を断ち、執を断つことができる場合にのみ、生死の檻から出ることができます。

ここから私たちは、一部の仏法の道理、例えば我見を断つ道理、明心見性の道理などは、ただ意識が表面的に知っているだけでは、生死の問題を解決できないことを知ります。必ず意根まで深く入り、意根に道理を分かってもらわなければ、自分自身を変え、生死の問題を解決できません。なぜなら、一切のことは意根が主張し、意根が決定するからです。意根には力がありますが、意識には大きな力がなく、主導権を持つことができないからです。私たちが五陰一家の生死輪廻の問題を変えようと思うなら、一家の主人を説得しなければなりません。ただ一人の家族を説得するだけではだめです。意根が一家の主人で、五陰世間のことはすべて意根が決定します。意根の力が十分になった時、先ず我見を断ち、次に我執を断ち、後世に生死に縛られなくなるでしょう。

——生如法師の開示
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我見断ちと明心証悟は共に意根が自ら証得するものである

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