衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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日常開示

2018年11月06日    火曜日     第2 回の開示 合計131回の開示

『大乘顕識経』講解

原文:

賢護。衆生身死。識持受覺法界。以至他生。因父母緣。而識托之。受覺法界。皆隨於識。亦複如是。如從花勝力。而鼻有嗅。從嗅勝力。而得香境。又如從風身勝力。得風色觸。因風勝力。香得至遠。如是從識有受。從受有覺。從覺有法。遂能了知。善與不善。

釈:仏は、賢護よ、衆生の色身が死んだとき、阿頼耶識は受け覚え法界の種子を携えて、また次の一生に行きます。中陰身の中で、父母の縁によって、阿頼耶識は受精卵に託入され、名色が生じます。受け覚え法界も阿頼耶識に従って次の一生の色身に移り入ります。まさに花の殊勝な力によって、鼻は嗅ぎ分ける性質を持つようになります。鼻の殊勝な嗅ぎ分ける力によって、花の香りの塵境を嗅ぐことができます。また例えば、風体の殊勝な力によって、風と花色体の相触れを得ます。さらに風の伝送の力によって、花の香りは遠くに漂います。同じ道理で、阿頼耶識によって受けが生じます。受けによって覚えがあり、覚えによって法が現れ、衆生は法の善性と不善性を知ることができます。

阿頼耶識の中には受け覚え法界の種子が含まれています。因縁が熟して、受け覚えの業種と六識の種子を出力し、受け覚えが現れ、衆生に受けと覚えの機能作用があります。身根の種子は最初に父母の縁によって身根を生じ、その後、識の種子も次々と生じて機能します。眼、耳、鼻、舌など四つの根の種子は身根に依って生じ、六根六塵の縁によって、六識の種子も機能を始めます。このように種々のことによって、受け覚え法界がまた生じます。

花には香りがあり、鼻根は嗅覚の機能を持っています。鼻根の嗅ぎ分ける性質と鼻識の力によって、私たちは花の香りの境を嗅ぐことができます。鼻根は花の香りの味塵を取り込み、根と塵が触れ合い、鼻識が生じて香塵を了別し、つまり香塵の相を取り込み、花の香りを覚えます。鼻識と意識心の作用によって、香塵の相を取って香境を得ます。識があって初めて得ることができ、識がなければ得ることができません。得るとは相を取ること、執着することの意味です。

風大自体には伝送の力があるので、風と色が触れ合い、風と花が触れ合うと、花の香りは別の場所に漂います。同じ道理で、阿頼耶識にも種子を送り出す機能作用があります。人が死んだ後、阿頼耶識は業種と触れ合い、五蘊を他の世界の別の色身に連れて行きます。風の押し出しによって、花の香りは遠くまで漂うことができます。同じように、阿頼耶識があるからこそ、受け覚え法界の種子を別の色身に移すことができます。風大は阿頼耶識を譬え、花は身根を譬え、花の香りは受け覚え法界と五蘊の種子を代表します。鼻根に嗅ぎ分ける性質があるのは、鼻識の作用があるからで、私たちは香りを嗅ぐことができ、覚知があります。これは受け覚えが六識の作用であることを説明しています。六識は色声香味触法の六塵を取ることができ、六塵は心識に現れます。

原文:

賢護。衆生身死。識持受覺法界。以至他生。因父母緣。而識托之。受覺法界。皆隨於識。亦複如是。如從花勝力。而鼻有嗅。從嗅勝力。而得香境。又如從風身勝力。得風色觸。因風勝力。香得至遠。如是從識有受。從受有覺。從覺有法。遂能了知。善與不善。

なぜ六識は色声香味触法の六塵を取ることができますか?色身があり、六根があり、また如来蔵があり、阿頼耶識があるからです。阿頼耶識は六塵を送り出すことができ、六識はそれに依って生じ、受け覚えが現れ、塵境が現れます。これは阿頼耶識が六塵を変生し、また六識を変生することができ、六識は六塵を取ることができることを説明しています。阿頼耶識から受けが生じ、受けから覚知があり、覚知から相が現れます。例えば、阿頼耶識が音を送り出し、根と塵が触れ合って耳識が生じ、耳識は音を聞いて受けがあり、受けがあれば感じます。音は耳識に現れます。鼻識があるからこそ、香塵が了別され、現れます。覚知から法があり、覚知があるからこそ、六塵法が現れます。法は六塵を代表し、覚知は六識を代表します。

六識の覚知とは、眼識は見ることができ、耳識は聞くことができ、鼻識は嗅ぐことができ、舌識は嘗めることができ、身識は感じることができ、意識は知ることができます。これを覚えといいます。眼識から何の法がありますか?色塵が出てきます。眼識がなければ色塵があることを知ることができますか?眼識が色塵を取れば、色塵が現れます。例えば、眼識があって初めて机の上のコップの相を取ることができます。眼識がなければこのコップの相を取ることができますか?それならコップがあることを知りません。眼識が現れて初めてコップを了別できます。眼識はコップの相を取ります。これが眼識が色塵を取ることです。

また例えば、耳識があるから音を聞くことができ、耳識は声塵を取ってきます。識がなければ取ることができますか?この取る過程は考える過程で、一つは了別の作用、もう一つは相を取る作用です。考えることは想心所とも言え、想蘊とも言えます。想蘊は先に了別し、了別した後、これが何であるかを知り、取ることになります。分別した後、相を取ることになり、そして名前をつけます。これが想の全過程です。鼻識があって初めて香塵を取ることができます。身識があって、太陽の温かさ、飢え、渇き、疲れなどの触塵を取ることができます。意識があって、法塵を取って、すべての法を知ることができ、善悪、是非、良し悪しを知ることができます。

——生如法師の開示
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