衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月15日    木曜日     第1 回の開示 合計159回の開示

参禅の奥義

すべての法の参究において、最初は意根が意識の思惟分析に合わせ、意識が各種のデータや資料を収集する。意識が資料を比較的十分に収集し、意根が利用できる十分な量になったとき、意識は意根の熟慮に合わせ、意根の加工と統合の仕事に合わせ、意根の審査・濾過の仕事に合わせ、意根に多くの心を使わせ、意識はあまり活発に思惟せず、参究の仕事はすぐに完了できる。

意識の活発な思惟を少なくし、意根に多く思量させるには、禅定を修めなければならない。禅定の中でこそ意根の専心な参究を保証できる。完全に一つの所に定まることはできなくても、極めて少数の法に定まることができればよい。専心して参究すべき法義以外は、少しだけ了別すればよく、自分の参究に影響しない。それなら参禅とは禅定の中で、意識は情によって思い解くことができず、意根の思量性を多く動かし、意根の思量を十分に有効に発揮し、如来蔵を自ら証得することであり、これが参禅の奥義である。だから意根が法を証得しなければ、明心して証悟することは不可能であり、同様に我見を断つことも不可能である。禅定の中で参禅すれば、意識の思惟を動かすことは比較的少なく、意根の思量性を動かすことは非常に多いので、証悟しやすい。これが参禅参究の奥義である。

——生如法師の開示
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