意根は深く細かい我であり、すべての法を我と見なし、もちろん一切の法はすべて意根末那識によって用いられる。意根は五陰を我と見なし、五陰の作用は意根自身の作用であり、第八識の機能作用を意根自身の機能作用と見なし、六識の機能作用を意根自身の機能作用と見なし、だから一切の法は第七識意根によって用いられる。そして意根は生生世世滅びないので、当然一切の果報も意根によって受け取られる。意根はいつも「我、我、我」という非常に利口な識心で、習気と煩悩が一身に集まっている。いかなることも、意根末那識の参加がなければ、成し遂げられない。参禅も同じである。意根が参禅を主宰して決定しなければ、意識は参禅できない。だから参禅という法も、意根によって用いられる。意根を動かして、一切のことは半分の努力で倍の成果を得る。意根に多く事実を示し道理を説いて、意根に一切の法には我がないことを証得させれば、意根が道理をわきまえ、一切のことは根本的に解決され、仏になるまで続く。
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