衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月26日    月曜日     第5 回の開示 合計185回の開示

心に仏になろうと願えば仏になれるか

『楞厳経』に「心で高みに登ろうと考えると、足の裏が酸っぱく疼く。色身は堅固なる第一の妄想である」とある。心が高所を想う時、意根は実際に山頂に立ったと錯覚し、恐怖を生じて足裏の疼きを引き起こす。同様に、色身も意根の妄想が生み出したものであり、最も堅固な妄想の産物である。

では、心に仏成りを願えば仏になれるのか。核心は、意根が仏成りを希求する境地に至っていない点、厳密に言えば意根の成仏への信心が不足している点にある。もし信心が満ち足りていれば、遅早はあれ必ず仏となる。我々は現在、信心を徐々に増強させる過程にあり、成仏へ一歩ずつ近づいている。真に成仏を願う者は、修行の精進度が極めて大きく、一切の世俗を捨てて専心修道し、全ての行動にその覚悟が現れる。

成仏の実現には、単なる心的願望を超えた「意根の転依」が必要である。『瑜伽師地論』が説くように、末那識(意根)が阿頼耶識の真実性を確信し、無始の自我執着を捨て去る時、初めて菩提心が真実に発起する。この過程で、六波羅蜜の実践を通じ煩悩障・所知障を断じ、三阿僧祇劫をかけて福智を円満させることが不可欠である。現代の修行者は、まず「勝解作意」によって仏道への決定的理解を深め、次第に「真実作意」へ転換させ、最終的に「究竟作意」において仏果を証得するのである。

——生如法師の開示
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