衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月04日    木曜日     第5 回の開示 合計19回の開示

覚と観、尋と伺

初禅以前の心には覚も観もあり、初禅と二禅の間の心には覚あり観なし、二禅以上の心には覚も観もない。観は覚よりも心思が粗く、主動的で、動きが明らかに目立つ。一方、覚は受動的な要素が多く、二禅に近づくと、心はもはや主動的に観察せず、受動的な知覚になり、その後知覚もなくなり、二禅に入る。したがって禅定の中では必ず観が先に滅し、覚が後に滅する。落ち着いて観察してみればわかる。この観は思惟があり、比較的粗い。覚は知ることで、識心が存在すれば知ることがあるが、必ずしも観察できるとは限らない。心が疲れて識心が微弱になると、もはや観察できなくなるが、知覚はあり得る。

尋は心の動きが非常に粗く、動きが明らかで、識心が主動的に探し、探究しようとし、発見しようとする。伺は心の動きが非常に細かく、動きが軽微で、見つけにくく、受動的に待つという意味があり、もはや主動的に出撃しない。観は観察に似ており、心思の動きが明らかで、自分で容易に観察できる。覚は心があれば覚えることができ、知覚は非常に微細で、多くの場合、自分でも自分が知覚していることに気づかない。観は尋に似ており、覚は伺に似ており、初禅以降の覚は、伺よりもさらに微細で、受動的である。

定力が十分な時、深く禅定に入り、自分で一切の法を観察思惟し、一切の法を検証し、既成の慣習的な説法に依らず、既成の答えは必ずしも正しくない。仏が自ら口にしたもの以外は、正しいとしても自分の現量観察をしなければならず、そうしてこそ智慧を増やすことができる。仏法をよく学べるかどうかは、各人の心思が細密かどうかに関係し、世俗法における国語の素養にも関係する。理論の中の字句の意味を正確かつ深く把握してこそ、正しく道理にかなった思惟ができ、文字の意味を誤解しない。

入定した時、あるいは非常に深い定を経験した時、どんな状態が観で、どんな状態が覚であるかを体得できる。字句の内包を把握することは私たちの文字の素養に属し、この基礎をしっかりと訓練しなければならない。そうすれば、後で文章や経典を読む時、文字言語の内包を深く理解し、仏経の本来の意味を正しく理解することができ、仏の意を誤解しない。多くの人は仏経を読んでも本当に理解して悟ることができず、誤解する場合が非常に多く、往々にして自分が誤解した意味で他人を判断し、他人が誤解していると言いながら、自分が誤解しているかどうかを検討しない。

——生如法師の開示
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