衆生無辺誓い度す
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日常開示

2018年11月30日    金曜日     第1 回の開示 合計198回の開示

意識の瞋と意根の瞋の違い

問:瞋心が生じた後、意根は意識と同時に瞋を起こすのか、それとも意識のみが瞋を起こすのか?意根はその時何をしているのか?なぜ意識が瞋心を引き起こした事柄を正見で理解した後も、心が苦悶し痛みを感じるのか?意根は依然としてその事に執着しているのか、それとも意根は関与していないのか?事柄の道理を意識が速やかに理解しても、意根が理解するまで心が突然解放され快適になる。しかしこの苦悶が消失する速度が遅いのは、意根が意識のように迅速に道理を明らかにできないためか?

答:意識の全ての心行造作は何によって生じるのか?意識は何によって出生するのか?それは意根が法塵に触れた後、如来蔵が出生させるためである。法塵とは何か?意根が触れた「怒る価値がある内容」である。意根が怒る価値ある法塵に触れ、発作を起こそうと決意(思心所の決定)すると、如来蔵が意識を出生させ意根の心思を満たす。これにより意識が瞋を起こし発作する。意根が造作を望む時、必ず意識に助力を求める。意根には特定の法を造作する補助者が必要であり、意識が自らの造作を助けることで初めて意識が出生する。意識は意根の代弁者かつ道具であり、意根の心声を代弁する。

では意識の怒りという法は如何にして生じるのか?意根が怒りを発散させ自身の怒りの態度を表出しようとする時、如来蔵が協調して意識を出生させ、意識を通じて意根の憤怒を表現させる。意識が出生した後、憤怒の心行が起こる。

意根の瞋は真の怒りであり、意識のみの怒りは偽りの怒りである。意根の真の怒りには様々な表現がある。顔面紅潮・悪口(言語造作)・膨れっ面や暴力(身体造作)など、これらは意識と身識が共同で造作し、意根の心行に順応して行われるもので、意根の心行を完全に表現する。一方、意識単独の怒りは、境界を了別する中で「少々気に入らない」と感じるが、意根は無関心で平静である場合に生じる。この種の怒りは力がなく重大な造作もなく、単なる形だけのものである。

しかし怒り後の反応には差異があり、覚悟の程度が異なる。意識は直ちに自らを反観し、これらの行為造作を反観するかもしれない。意識は「怒りは誤り」と感じ、その理由を即座に理解できる。意識が理解しても意根が未理解の場合、意根は依然として怒り続け、腹を立てている。意識が「怒るな」と説得しても、意根は理解せず怒り続ける。時には意根が制御不能に陥り人を殴ろうとし、意識が「殴るな」と言っても意根は聞かず、言葉と行動が矛盾する。故に意識が道理を理解し理性があっても、必ずしも意根を制御できず、意根が発作を起こせば意識は協力せざるを得ない。

我々の心理行為は意識層面と意根層面に分かれる。意識層面は受動的であり、意根の意向に従う。意識層面が主導権を得るには、意根を影響下に置き薫染に成功せねばならない。薫染が成功すれば意根が主導的に決定し、意識の考えに順応する。薫染が失敗すれば、意根は自らの心行に従って発作し、意識の説得は無効となる。「怒るな」と説いても怒り続け、「するな」と命じても強行する。これが「言行不一致」であり、意根が意識の意見を聞かず独断専行し、心行が一致しない状態である。

——生如法師の開示
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