衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月30日    金曜日     第3 回の開示 合計200回の開示

疑念の力が強い理由

疑念には深浅があり、疑いの心が深ければ力も大きく、抜け出し難く、必ず内心深くの意根が既に疑いを起こしているため、身心共に安穏でない。単に意識が疑うだけで意根が疑わない場合、この疑いは浅く、身心は平常通りで変化がない。もし意根が疑いを起こし信じなければ、如来蔵が意根の思心所を了別し、過去の全ての心行を相殺する。これには造作した善法や功徳なども含まれるため、疑いの心が強いのは良くない。

疑いは煩悩の一つであり、解決克服すべきものである。疑い・不信は煩悩と結縛に属し、修行において徐々に解除すべき障礙である。疑いを解かねば生死を了脱できぬため、心中の疑いを解決する方法を模索すべきである。もし自ら功徳を積んだ後に自らを疑えば、功徳の量と程度は減少する。真に善業を造作したなら、自らの功徳を疑わず善業であることを認めれば、必ず善業として善果報をもたらす。意根の背後には如来蔵が連動し、意根の心行を全て了知しているため、意根が功徳を疑い信じなければ、如来蔵はこれらの功徳の記録を相殺し功徳性を減ずる。

例えば臨終の際、今世の悪業を念じ続ければ、如来蔵は悪業を現前させ、それに従って報いを受ける。しかしこの心念を制御できる。一生涯の悪業は臨終前に可能な限り懺悔し、懺悔し切れぬものは臨終前に強烈な念を形成せず忘却し、臨終時に想起しなければ、如来蔵がその業を現前させず、業が現前する縁が熟さない可能性がある。

臨終の念が後世の去向を決定する。意根に念があれば、如来蔵は可能な限りこれに随順し、念う内容がそのまま現実となる。極楽を念えば極楽へ、娑婆を念えば娑婆に留まる。一切法は心の想いから生ず。臨終の意根が如何なる念を持ち、如何なる願力を有するかに対し、如来蔵は可能な限り協調し、その念力と願力の実現に努める。故に臨終に善願を持ち極楽を向往すれば、如来蔵は必ず極楽往生に協力する。もし臨終の念が悪く、今世の悪業と相応すれば、悪業の果報が現前し三悪道に堕ちる可能性がある。故に臨終の念が最も重要であり、善業を造作したなら自らの善業を疑わず、善業を念じ想うことで善報を受ける可能性が極めて高くなる。

——生如法師の開示
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