性障は心性方面の煩悶で、貪、嗔、痴と応じ合うもので、自身の道業を障害することができます。煩悶の習気は意根が無始劫以来積み重ねてきた慣性作用です。四果阿羅漢は貪、嗔、痴の煩悶の現行を断除できますが、習気の慣性は断除できないので、時々は習性が思いがけなく発作してきますが、過ぎ去るのがとても速く、内心に跡を残さないで、長い間怒っていたり、怒りを爆発させたり、内心で恨みを抱いたりはしません。
凡夫は煩悶を皆現行させます。具体的な表現は、貪性の行為造作、嗔恚の行為造作、愚痴の行為造作であり、また内心の貪、嗔、痴の煩悶性の直接の体現と流露です。習気は例えば、自動車のブレーキをかけた後、慣性の作用によってまだ一段の距離を走るように、すぐに止まらないですが、この力は比較的小さいです。この距離は初地菩薩から八地菩薩の間の修行過程です。初地以前は皆煩悶の現行で、煩悶は断尽していません。三果以前で、初禅定まで修えない場合、貪、嗔、痴の煩悶は皆圧伏されて、少しも断てないです。初禅定以後で、初めて徐々に煩悶を断つことができます。
明心見性もせず、証果もしていない人は、たとえ四禅八定を修出しても、煩悶は断れないで圧伏されています。将来、禅定が退失する時、全ての煩悶はやはり現行されます。だから、証果と明心見性の功德は非常に大きいです。それは衆生が将来、煩悶を断つ能力を持ち、生死輪回の苦から出離することができ、世世とても自在であることを可能にします。
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