衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月26日    水曜日     第1 回の開示 合計274回の開示

因果は真実で虚しからず

末法の世において衆生の心は浮ついているが、一部の者は敢えてこの浮ついた心理に迎合し、衆生を喜ばせようとする。もし衆生の悪習に一切逆らわぬなら、如何にして悪習を転換させ、衆生を解脱させ得ようか。

衆生は貪欲であるだけでなく愚痴でもあり、刃先の蜜を舐めようとし、結局何を得るかを誰も考えない。大多数は眼前の些細な「利益」のみに目を奪われ、三悪道に堕ちる危険を冒す。一見大胆に見えるが、実は愚痴によるもので、遠大な未来の利益を考慮できない短慮さの現れである。

実際、大多数は個人の利益のみを打算し、行動の結果として既得の利益さえ失うことが多い。しかし誰もこの点に気付かず、目も向けない。何故か。無明の愚痴と煩悩が目を覆い、己を見極められず、真の損益を弁えられないからである。

因果に対し、多くの者は真に信じず、常に僥倖を抱き「因果は他人に降りかかるだけで自分には及ばない」と考える。故に自己の利益のために「他人が己の指示に従わねば必ず悪果報がある」と断言するが、自らの悪果報が迫り、自らが悪因を造っていることに気付かない。

私が仏法を学び始め経典を読んだ時、因果に関する実話に触れ、因果の真実不虚を確信し、身口意を慎んで戒めた。しかし現在の学仏者は経典を読まず、その内容を知らないため、心が盲目で因果を理解できない。

現在はネットが発達し、悪業を造るのが以前より格段に容易になった。指先を動かすだけで悪業が全国に拡散する状況は実に慨嘆に堪えない。誰も指先の動きの後に来る悪果に警覚せず、無知故に畏れなく、心を塞がれ他人に盲従し、善悪を知らず大悪業を造りながら悔い改めない。

一部の者が悪業を造るのは他人の唆しによるもので、自身は事情を知らない。例えば「こうすれば問題ない。因果は私が引き受けるから、あなたには善果のみで悪果は無い」と言われ、盲目の者がこれを信じ、因果を代わって引き受けてくれると錯覚する。しかし因果が到来すれば各々が自らの果報を受けるため、互いに代わることは不可能で、仮に実の親子でも如何ともし難いのである。

——生如法師の開示
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