業果が実現する因縁がまだ熟していない場合は、この業は不定であり、懺悔によって消え、証果によって消え、明心見性によって消え、入地によって消え、いかなる果位を証得しても消える。業果の因縁がすでに熟したものは定業であり、一般の人にとっては必ず報いを受ける。しかし修行に力ある者にとっては、業果が実現する時にも重罪軽報となり、業果を転化することもでき、これらは必ずしも定まらない。
聖人にとっては一切の業果は不定であり、実現させずに転化することができ、完全に当人の意志による。究竟の理地から言えば、一切の業果は不定である。もし業果に定まった性質があれば、衆生は成仏できず、衆生の無量劫の罪業は永遠に滅び尽くさず、罪業が滅び尽くさなければ成仏できないからである。しかし現実世界において、十方の諸仏は無量に存在し、罪業はすでに余すところなく消え尽くしている。したがって一切の業果には定まったものがないと説かれる。
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