『坐禅三昧経』に教える思惟の方式は、観行を指導するもので、思路は明晰だがやや粗雑である。禅定に観行を加えれば、果を証し各種の三昧を証得するに足り、定慧を並行して修する。仏陀在世の時も、弟子たちは法を聞いた後、禅定を修し、思惟観行し、直ちに果を証した。当時はこの修行路線で、効率が極めて高かった。唐や宋の時代も同様で、大衆は禅定を修し思惟参禅し、禅師が上堂して開示すると、時節因緣が具足すれば明心見性した。
外道たちは皆禅定の功夫を具え、世尊に遇った時、世尊が法を説くと、直ちに思惟観行し、その場で果を証した。故に、他人が最後に果を証する手続きが法を聞く当座に智慧を得る様子を見てはならない。その前に既に禅定が成就し、心は清浄となり、三十七道品も修じ終えており、ただ正知見が不足していたところに、世尊の説法がその不足を補い、法を聞く当座に果を証したのである。我々は他人の最終的な成果を見るのではなく、彼らが修行した過程を観察すべきで、過程が重要である。理に適った過程がなければ、正しい果もあり得ない。
過去の禅宗の祖師は皆禅定の達人であり、弟子たちは皆禅定を具え、菩薩の六波羅蜜を既に修し終え、修行の過程を完遂していた。禅師が上堂して開示すると、座下の弟子たちは悟り、果はこのように出現した。
我々は成就者の結果だけを見るのではなく、最も重要なのは彼らの修行過程を見ることである。前世にどの程度まで修行し、如何に修行し、どのような根基を有していたかを含む。根基を既に築いた者は、法を聞く当座に頓悟し、漸修を要しない。何故なら以前または前世に既に漸修を経て、その道程を歩み終えているからである。修行者の修行過程から最後の一部のみを切り取るのは、甚だしい断章取義であり、人を害するもの甚だしい。
仏教を初めて学ぶ者は、仏陀の本生事迹を多く読み、仏陀が初発心から始めた修行の道程を参考にすべきで、我々にとって大いに啓発がある。仏を学ぶとは、まさに仏陀の一切を学ぶべきである。
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