衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月26日    土曜日     第1 回の開示 合計349回の開示

なぜ受は全て苦なるか

苦には三種あり:苦苦・行苦・壊苦。あるいは八苦に分ける:生老病死苦・求不得苦・怨憎会苦・愛別離苦・五陰熾盛苦。行苦の「行」とは運行と変化を意味し、五陰の身心が少しずつ変化し壊れていく根本的な止住不可・把握不可を指す。故に五陰には行苦が存在する。壊苦の「壊」とは破壊・消散・変異を意味し、五陰も把握不可能であるため五陰には壊苦が存在する。一切の苦そのものが苦である、これが苦苦の意味である。衆生には三苦八苦のみならず、拡大細分すれば無量の苦がある。しかし愚痴な衆生は苦中にありながら苦を知らず、仏陀に娑婆世界で苦聖諦を開示してもらいながら、開示後もなお苦を認識できず苦を断つこともできない。

受は苦受・楽受・不苦不楽受に分かれるが、いずれの受も苦である。楽受の中にも行苦が存在し、楽受の後には壊苦が訪れる。楽受の最中にも心には依然として苦が存在し、楽時は純粋な楽ではない。さらに衆生は各種の楽受に一定の代償を支払わねばならない。故に五陰世間に真の無苦の楽受は存在しない。

無色界において非想非非想処の禅定境涯は極楽であるが、そこにも行苦が存在する。時間の経過が極めて速く、定中の八万劫が瞬く間に過ぎ去り、過ぎ去れば一切の苦恼が眼前に現れる。衆生は楽しい時にその楽の消失を望まないが、この望み自体が苦であり、有所求の苦に属する。衆生が仏法を求める際に支払う辛苦の代償もまた苦そのものであるが、苦中に楽受が存在し、後には一切の苦が次第に楽受へ転化する。故に我々は精進して仏法を修学し、困苦と艱難を畏れず、修め究めれば全て楽受と捨受へ変わる。いかなる受も無常であり、無常なるものは苦である。故に「受あるものは皆苦なり」と説かれる。

——生如法師の開示
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