もし仏法を学び修行することが単に技術的な努力に過ぎないならば、何故ある者は日夜座禅修行を三五十年前後も続けながら尚初禅定を得られず、ある者は一二年で初禅定が現前するのか;ある者は悟りを開いて三十年経っても尚初禅の影さえ見えず。然るにある者は仏法を学び始めて間もなく理論に触れ、稍々観行するだけで各種の果位を証得し、仏法上の多くの名相が未だ明確でないにも拘わらず、観行の智慧は既に生起しているのか。
もし仏法を学び修行することが技術的な努力であるならば、菩薩の六波羅蜜は技術的な修行か、心性上の修行か。布施度は技術層面に属するか、心性層面に属するか。持戒は技術層面に属するか、心性層面に属するか。忍辱は技術層面か心性層面か。禅定は技術層面か心性層面か。
智慧について、心性の良からざる者は如何なる智慧か。この種の智慧は菩薩や仏と相応するか。精進には正精進と邪精進あり、邪精進は技術層面に属し、正精進は心性を修めることにあたる。別の意図を持つ者は仏法において真実の受用を得られるか。菩薩が真に成就した標識は慈悲喜捨にあり、心性が転換されなければ永遠に慈悲喜捨の心行は生じず、菩薩の果位は永遠に満足せず。
阿羅漢と菩薩の心性、いずれが優れるか。いずれの道業が更に増上するか。いずれが最も仏に気に入られるか。いずれが先に仏となるか。いずれが技術層面の修行か、いずれが心性層面の修行か。技術作業に没頭する者を、仏は焦がれた芽や敗れた種と罵り、無為の坑に堕ちたと非難したのではないか。
仏法を学び修行した最終的な結果は必ず徳才兼備となり、才あるのみならず更に徳を要す;もし徳無ければ、才は単なる歪んだ才で、或いは邪道に用いられ悪業を造作しても知らぬ。世の中に才ある者は多いが、必ずしも皆善業造作に用いられる訳ではなく、悪業造作に用いる者も多い。悪業造作に用いるならば、寧ろ才無きに如かず。
仏法を学び修行する者にとって、徳は第一位を占め最前線に置かれ、徳有れば才無きを憂えず。若し一人の者が才のみ有り徳無ければ、才が如何に大きくとも正用無し。而して徳有り才無き者は徳才兼備の人材に育成でき、其の菩薩心性を以て仏力の加護により速やかに道を得る。故に仏法を学び修行することは単なる技術的な作業にあらず、最も主要なのは心性上の修養なり。無我無私の者こそ真の菩薩にして、若し内心に己のみ存在し個人の私利のみ有り、一心に自己の為のみを求める者は、斯かる者は真の菩薩に非ず。
技術的な修行は永遠に心性修養よりも容易なること数倍、技術は只功夫を下し钻研し研究すれば、必ず文字の中より何かを研究し得て収穫有り、更に聡明伶悧を加えれば少なからぬ技術を手中に収め得る。然れど心性は如何。百年を以てしても心性を降伏せしめ難く、秉性は改め難し。技術を搞出した菩薩は心性未だ降伏せず、依然として真の菩薩に非ず、只名義上の仮菩薩、冒充の菩薩に過ぎず、永遠に菩薩の作用を起こし得ず。
少なからぬ者が苦心惨憺して日夜観行・研究・钻研に努め、自らの心を研究すること無く、如何に刻苦して仏法の科学技術を钻研するも我執の強さと利己性を降伏せしめ得ず、真に我見を断ち切れず、真に明心証悟を得られず。斯かる者は菩薩に非ず、仏法の科学技術を掌握したと雖も!
今の時代に於いて、仏法を学ぶ者の多くは只技術的な作業に没頭し、自らの心性に功夫を用いること無し。技術は搞出したれど、徳が位に伴わず、到る所で自我を煽り立て自我を逞しゅうし、遂には到る所で混乱を招く。仏法を学ぶことは冒頭する為、自我を逞しゅうする為に過ぎず、決して自我を降伏させる為、無為の為、無我と自心の煩悩解脱の為に非ず。学ぶほど高調に、学ぶほど自我重く、学ぶほど天下乱れ、遂には世の道が乱されんとする。少なからぬ者が仏法を学ぶことは只人並み優れて出る為、他人の肩を踏み台にする為に過ぎず、自我を泯滅させ消え失せさせることなど微塵も考えず、これは我見を断つか、或いは我見を増長させるか。仏教が斯くの如く発展すれば、遂には天下大乱に至らん。
故に若し真に自らを修持し上げんと欲すれば、必ず両手を抓むべし。心の地に多用功して自らを調柔するのみならず、観行参究にも多用功し努力して実証を重ね、真の意味における聖賢と成らんことを。
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