衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月17日    日曜日     第2 回の開示 合計412回の開示

老僧は明白の中にいない

趙州は次のように示した:「至道に難きは無し、唯だ撿択を嫌う。才だ語言有れば、是れ撿択、是れ明白。老僧は明白の中にいない」。最初の二句は禅宗三祖の示したもので、意味は「その大いなる道を識得しようとするのは難しくないが、思惟・選択・分析・判断・推理・識別などが可能な意識心を大いなる道と見做すことを避けよ」である。そうすれば車の轍が南北に分かれるように、これらの心の活動を道と見做すことは道に背く。これらの心の活動は大いなる道たる本覚と相応せず、本覚自性は選択せず、主導せず、分析せず、判断せず、思惟を持たない。第八識である本覚には、これらの心の活動は存在しない。もしこれらの活動があれば、それは必ず意識心の所為であり、本覚ではない。

趙州はこれについて注釈して言う:「言葉・文字・内心の思惟が一旦生起すれば、これが即ち選択であり、明白である。我が老僧はそもそもこの明白の中にいない」。趙州の意図は、本覚たる第八識には言葉がなく、話さず、思惟・分析・判断せず、一切を選択せず、一切の六塵境界を明白に知らないということである。この「明白に知る」性質は意識心のものであり、真実の趙州たる我ではない。

——生如法師の開示
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