衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月10日    水曜日     第2 回の開示 合計44回の開示

真心と妄心の違い

妄心は七つあり、第七識の意根と前六識で、真心はただ一つの第八識だけである。意根は常に至る所で主宰をしている心で、「こうしたい」「ああしたい」「こうすべきだ」「ああすべきだ」と、常に思量し、執着し、攀縁し続け、常に主宰をしている。これが第七識の体性である。

六識は六塵を分別する。目が色塵を見ると、すぐに何であるかがわかる。この「知る」は眼識と意識の知で、両者が共同して色塵を了別する。耳が音を聞くと、すぐに何の音であるかがわかる。この「知る」は耳識と意識の知である。これらの「知る」はすべて生滅無常で、生滅変化するものは妄法である。妄想を打つ時の心は意識心で、妄想を打たない心を知るのも意識心で、これは意識心が自分自身を反省する作用である。座禅をしている時、前際が断たれ、後際が生じないで、中間の一段がはっきりと分かり、明瞭である。これは意識の妄心で、意識の妄心が自分が今念頭があるかないかを知る。「知る」があれば妄である。真心は入定しているかどうかを知らず、念頭があるかどうかも知らない。

『首楞厳経』の中で仏は「知見立知、即ち無明の本」と言った。これは第六意識の「知る」で、第六識の「知る」を真実として捉えることが無明の根本で、妄であるという意味である。また「内に守って悠々として、猶ほ法塵の分別影事なり」と言った。これも意識心の中に事がなく、悠々とした境界を指し、法塵の境界であり、意識によって分別されるもので、この心は妄心の第六識で、真心ではない。

座禅をして何も知らない状態になっても、第六識は自分が何も知らないことをはっきりと知り、自分が入定したことを知る。この「知る」は妄心の第六識の反省作用で、真心ではない。なぜなら、自分が入定したという定境の法塵を分別し、知る心は第六識で、真心は知らないからである。この心を真心として捉えて自分が悟ったと思ってはいけない。これは悟りの境地ではない。

六塵に対して「知る」があるのはすべて真心の「知る」ではない。真心は永遠に六塵を知らない。法塵も六塵の一つで、入定の境界は法塵の境界で、意識心によって了知される。たとえ三界の中で最高の定である非想非非想定に至っても、定の中にまだ「想」があり、この「想」は「知る」でもあり、第六識でもある。「知る」を滅ぼせば、四果の阿羅漢を証得し、すぐに無余涅槃に入り、生死を脱し、三界を出て、解脱を得る。だから、ある「知る」を真実だと認めれば、果を証得できず、我見を断つことができず、これは生死の凡夫である。

定の中で定境を了別し、自分が入定したことを知る心は意識心で、意識心が一時的に妄念がなければ、入定できる。意識心が定から出ると、すぐに妄念が生じる。しばらく念頭があり、しばらくない、変化し続けるものは真実の心ではない。真実の心は永遠に変わらず、いつも同じである。まして定の中で念頭がない心は、長く保つことができず、遅かれ早かれ変わってしまう。一時的に現れる念頭がない現象に過ぎない。たとえ八万大劫にわたって入定できても、意識心はやはり定から出て、出ればすぐに念頭があり、同様に散亂してしまう。したがって、定の中で念頭がない意識心は生滅の法である。第六識の体性は一点、第八識に似ており、ともに形も相もないので、区別しにくい。両者の体性を徹底的に区別してこそ、間違えない。この箇所は極めて重要で、生死の大事はいい加減にできない。経典を徹底的に学ぶとわかる。

——生如法師の開示
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