衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月13日    土曜日     第3 回の開示 合計57回の開示

音を聞く時に真心の第八識を識別すべき

私たちが音を聞く時、耳識の参加、意識の参加、同時に第七識と第八識の参加もあり、これら四つの識は全て形も相もない。音を聞く時に悟りを得ようとするなら、どれが第八識で、どれが第七識で、どれが意識で、どれが耳識なのかをはっきり分けなければならない。これらの幾つかの識が和合して作動する中で、必ず真心と妄心を分け、分けてから、その真心を認め取る。これが明心開悟である。

もし福徳、定力、慧力が全て備わっていなければ、往々にして妄を真と認めてしまい、誤って意識心を真心の第八識として悟ろうとする。意識心を悟る時にも一種の空の感覚があり、心も一時的に清らかになり、一部の人事物理を空と見ることもでき、少しだけ仏経を理解できるようになり、空の道理を当てはめることもできるが、第八識が具体的に五陰七識万法をどのように生み出すのかは全く知らない。悟りを誤った人は絶対に知ることはない。これが真の悟りと誤った悟りの分かれ目で、本当に僅かな違いでも大きな誤りになる。

意識心と第八識は共に形も相もなく、ある点で似ている。一般的に人々は意識を少し清らかにし、雑念妄想がなく、心の波がなく、清々しく身心の内外の一切の境界相を感知できる状態になると、この清明な状態の意識心を、本来念頭も知識もない清らかな第八識と見なし、こうして主人公を間違えて認めてしまう。意識はどんなに清明であろうと、どんなに知らない状態であろうと、意識心が存在する限り、六塵の境界を知る「知」がある。あるいは意識が定まっていても、定境を知る「知」があるので、第八識ではなく、本当の悟りではない。ただ自分の意識心が比較的愚かで、この時の自分の状態を反観することが難しく、これが第八識の知らない状態だと思い込んで、自分が第八識を証得したと認定してしまう。これはなんと大きな誤解であろう。

実際、意識心が非常に微細になると、その反観力も非常に弱くなり、さらに仏教を学ぶ人が意識心の体性を理解していないため、意識心を真心の第八識と間違える現象は非常に普遍的である。今、自分が悟ったと思っている人は至る所にいるが、何年経っても、智慧は依然として元のレベルで、足踏みしたままで、増進されていない。禅宗の公案も理解できず、経典も理解できない。

だから、自分が既に悟ったと思っている仏教を学ぶ人たちに勧める。自分の生死の大事のために、早く振り返って自分の悟りが何なのかを検討し、経典に照らして検査し、意識の体性と第八識の体性をもう一度詳しく分析して判定し、真心と妄心の種々の違いを厳格に区別してから、再び努力して菩薩になるために必要な条件を満たし、菩薩になるための条件が全て満たされたら、再び参禅して、本当に仏門に入り、真実義の菩薩になるように。

——生如法師の開示
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