意根の無我とは、一つには意根を真実と認めないこと。二つには五陰を真実と認めず、自分として認めないこと。三つには六識の機能を真実と認めず、意根自身の機能として認めないこと。四つには第八識の機能を意根自身の機能として認めないこと。
人我執を断つ時、意根は五陰十八界が自分ではないことを知らなければならない。ゆっくりと五陰十八界に対する執着を断ち始め、五陰のこの機能も自分ではない、あの機能も自分ではないと観察し始め、五陰の全ての機能が自分ではないことを悟る。このように少しずつ意根が五陰に対する執着性を断ち除くことができ、四果の阿羅漢になる。意根は五陰に対する執着性を断ち除いた後、初歩的な無漏に達し、その遍計所執性が一部消える。四果の阿羅漢になる前は、ずっと意根の自我に対する執着性を抑えている。初果を証得して初果の人になった時からゆっくりと少しずつ抑え、四果の阿羅漢になって我執を断ち尽くすまで。
初地の菩薩は法我執を少しずつ断ち始める。法我執を断つには無生法忍の智慧を得て、一切の法において、皆無我性を証得し、一切の法に自主性がなく、全て第八識によって幻として現れたものであることを観察しなければならない。一切の法に確かに自分が存在せず、自分ではないことを観察して、意根はこれらの一切の法が自分ではなく、自分が所有するものでもないことを認め、このように少しずつ意根は一切の法に対する執取性を断ち除くことができる。意根が徹底的に無我になり、一切の法に執着せず、心が空っぽで清浄になってこそ、仏になることができる。
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