業種枯渇の道理は極めて深遠であり、甚深なる道種智を具えて初めてこの中の深義を了知できる。全ての衆生が成仏する以前には、一切の悪業障が受報し尽くされ、微塵ほども残存しない状態に至らなければ成仏できない。僅かでも悪業が存在し消滅していなければ、成仏は不可能である。衆生が無始劫以来に造作した悪業は、成仏直前において全て受報して初めて消滅するのかというと、それは不可能である。無始劫以来に造られた悪業は実に膨大で、塵の如き数に及び、全て受報によって消滅させねばならないならば、三大阿僧祇劫では到底受け終われず、このような長劫をもってしても報い尽くせない。しかし諸仏は皆三大阿僧祇劫を修しただけで悪業種子が既に消滅している。ではこれらの業種は如何にして消尽したのか。
ある業種は長期間にわたり現行する縁が無いため、次第に自ら枯渇し消滅する。特に比較的小さな悪業種子は枯渇し易く、あまりに大きな悪業種子は枯渇できず、必ず菩薩地において受報し尽くさねばならない。あるいは重業が軽業に転じ、重罪軽報によって滅する。一切の悪業は必ず消尽されて初めて成仏できる。多くの大菩薩が人間界に来臨する際にも悪業の果報を受ける例があるが、これは避けられない。一方で菩薩は修行過程において絶えず善業を積集し、生生世世の善業が悪業を遥かに凌駕するため、比較的小さな悪業種子が生起する縁が常に具足せず、無限の時を経て意根が常に善業種子と相応し、悪業種子と相応せず、心も次第に清浄となる。これにより久遠劫前の種子が枯渇し消滅するのである。
ある小さな悪業種子は、長期にわたり現行の機会が無ければ必ず枯渇する。意根の悪習気や劣った習性も、長く表現する機会が無く、更に良き善の習性が形成されれば、元の悪習は消滅する。消滅可能な業種とは、過去生における身口意の造作行為が種子として如来蔵に蓄積され、将来縁に遇えば悪果報を現行するものであり、果報は因縁成熟時に初めて実現する。我々が為すべきは、懺悔による業消滅、大善業の造作、前世の悪業を上回る善業の積聚である。善業種子が常に現前すれば、悪業は現行の機縁を得られず、我々は常に善報を受け、悪報を受けないか軽く受けるだけで済む。未来に承受能力を具えた時、悪報を受けても苦痛ではなく、完全に耐え得るようになるのである。
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