問:業種枯渇の道理は、「仮に百千劫を経とも、所作の業は亡びず。因縁会遇する時、果報自ら受く」との偈頌と矛盾するように思われます。この四句は「業種が堅固であり、報いを受けるまで決して消滅しない」という意味を表しているはずですが、どのように解釈すべきでしょうか。
答:この業種枯渇の意味は、衆生が業を造る習性の勢いが、長期間にわたって業を造る機縁が現れないため、次第に弱まり、ついには業行を造作する能力や慣性を失う状態を指します。ちょうど種子が長期間放置されると生命力を失い、根を張り芽を出すことがなくなるのと同様です。大悪業を造った者が下品往生で極楽世界に至り、最長十二大劫の間、蓮華の中に留まって仏法を薫修する場合、一切の業を造る機会が全くありません。最終的には心念上の悪さえ消滅し、再び業を造らなくなるため、ようやく蓮華から出て化身の観世音菩薩に面会し法を聞くことができますが、その意味を解さないのは、往昔の罪業が覆い障りとなっているためです。
彼らが蓮華の中で長く業行を離れた結果、悪業を造る慣性が消え、身口意の悪行が現起せず、既に習慣化しているため、極楽世界の清浄と安寧を乱すことがありません。しかし往昔に造った悪業は、娑婆世界に戻る際に大きな悪業の因縁が熟すれば報いを受けますが、その業報は軽微で重くならず、三悪道に堕ちることはなく、人間界で相応の苦報を受ける程度です。これは重罪が軽報となり、軽罪は消滅することを示しています。
懺悔も同様の道理です。懺悔を通じて悪業の種子を消滅または軽減させれば、衆生は後の世で悪業の果報を受けず、あるいは軽く受けるだけで済み、業種は消滅します。故に、全ての業種が報いを受けて初めて消滅するわけではなく、多くは他の形式によって消滅するのです。そうでなければ、成仏する際に悪報が永遠に受け終わらず、成仏が不可能となってしまいます。
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