衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月31日    水曜日     第2 回の開示 合計120回の開示

『大乗顕識経』講解

原文:

賢護白佛言。世尊。衆生雖知有識。如寶閉在篋中。不顯不知。世尊。不知此識。作何形狀。何故名識。衆生死時。手足亂動。眼色變異。制不自由。諸根喪滅。諸大乖離。識遷於身。去至何所。自性如何。作何色相。雲何捨離此身。更受餘身。

学佛する人は非常に多いが、本当に善業が大きい人は非常に少ない。80パーセント以上の人が三悪道に落ちる。この一生学佛していても、依然として三悪道を免れられない。なぜなら、彼がこの一生で行った善業は非常に少なく、過去世と今世の悪業は非常に多くて重いからである。たとえば心中に貪欲があれば、貪欲でけちな心が重ければ必ず餓鬼道に生まれる。また瞋恚と愚痴の業が重ければ、一つは地獄に落ちて報いを受け、一つは畜生になって報いを受ける。学佛する人の中で、これらの悪業の煩悩はほとんど消えたり降伏されたりしていない。貪瞋痴の煩悩は三果を証得した時になって初めて断ち切られ、初果を証得した時でもまだ断ち切れない。しかし初果を証得すれば三縛結が断たれ、三悪道業の縛りもなくなり、三悪道に生まれなくなる。

ある人は、仏経に五戒を守れば人身を得られると言って、自分は五戒を守っているから、きっと人身を得られると言うかもしれない。しかしそうとは限らない。一つは自分が本当に五戒を守っているか正しく判断できないからである。二つは仮に自分が本当に五戒を守っていたとしても、前世の悪縁がちょうど熟したら、彼は必ず悪縁に従って三悪道に行って生死を輪廻し、選択肢がないからである。五戒を守る功徳については、善縁が熟した時になって初めて善報を受けられる。天人も五戒を守り、欲界天、色界天、無色界天の天人は皆五戒を犯さず、どんな悪業も造っていないが、彼らの多くは死んだ後直接地獄に落ちる。これは地獄の悪縁が熟したことを示し、それを避けることはできない。天人の福報が尽きれば地獄に落ちる。なぜなら、彼らは無始劫以来の悪業の種子がまだ存在していて、善業の縁が小さく、まだ熟しておらず、勢力が十分でなければ、依然として悪道に落ちるからである。衆生が臨終にどこに生まれるかは、どの引業の勢力が大きいか、どの業縁が先に熟すかによって決まる。

ある人は悪業を造ったが、誠心誠意で清浄な大願を発することができれば、臨終の時、善の願力が悪業の業力より大きければ、この大願力によって善道に生まれることができる。だから学佛する人にとって、初果を証得することは一刻も猶予できないことである。もしこの一生で初果を証得し、次の一生でまた初果を証得したり、二果を証得したりすれば、生生世世三悪道に落ちて苦しむことはない。その後、三果四果を証得し続け、煩悩を断ち切れば、心が解脱し、慧も解脱することができる。三果は貪欲と瞋恚の二つの煩悩を断ち切ることで、初禅定に修めなければならない。初禅を証得するのは当然少し難しいが、初禅以降、煩悩を断ち切るのはそれほど難しくない。

しかし多くの人が自分は貪欲を断ち切ったと言い、自分は人間の法に貪欲がなく、人間のすべてのことに興味がないように感じるが、実際には少しも断ち切っていない。それは一種の抑圧状態で、断ち切った状態ではない。なぜなら、我見を断っていないし、初禪も証得していないし、五蓋も修め除かれていないから、貪欲の煩悩を断ち切ることは不可能である。また一部の人は表面上淫欲のことがなくなったと言い、自分はもう淫欲の煩悩を断ち切ったと言うが、実際にはそれは表面上の一種の抑圧と抑制に過ぎず、心理的にはまだ断ち切っていない。中陰身では、依然として貪欲のために生まれ変わる。男女の欲によって生まれ変わり、次の世の色身があれば、貪欲は断ち切れていない。本当に貪欲を断ち切れる人はもう生まれ変わらない。初禪を証得した菩薩たちは例外である。

——生如法師の開示
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