衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月31日    水曜日     第3 回の開示 合計121回の開示

『大乗顕識経』の講解

原文:賢護白佛言。世尊。衆生雖知有識。如寶閉在篋中。不顯不知。世尊。不知此識。作何形狀。何故名識。衆生死時。手足亂動。眼色變異。制不自由。諸根喪滅。諸大乖離。識遷於身。去至何所。自性如何。作何色相。雲何捨離此身。更受餘身。

初禅発起を障げる主因は五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑)である。特に五蓋中の貪欲蓋は、人間界と欲界天への欲望が強い場合、色界初禅定を生起できない。人間界と欲界天への欲求を降伏して初めて色界初禅定が発起する。色界初禅定を発起するには男女欲・飲食欲等あらゆる欲望を降伏せねばならない。衣食住に拘り、色声香味触を好む者は初禅定を成就できず、生活環境への執着も禅定を阻む。如何なる環境にも無執着で、良し悪しに動じず、環境に対し心行を起こさない時、初めて禅定が得られる。日常において全てに無関心で環境の良否を気にせず、真に無執着を実践して初めて禅定が発起する。飲食に拘り栄養・色香味を求める者は初禅が発起せず、色界定に入れない。

証果や明心を成し遂げた直後、禅定が発起せず深まらない場合、この時期を過ぎれば初禅発起が困難となる。我見を断じた際の覚明と内心の喜悦を機に、禅定修習に集中すべきである。覚明が無く定力が浅ければ、後の初禅発起は期待薄い。特に在家者は日常生活との関わりが密接で初禅発起が難しく、出家者の方が幾分容易である。在家者の仏法修行は容易でなく、日常生活で常に心を動かす事象に遭遇し、禅定修得が困難である。

過去の外道出家者は初禅どころか四禅・四空定を証得し、非想非非想処定さえ成就した者もいた。深山で専心禅定を修し、真に世間への執着を断じた。現代では未到地定・欲界定すら困難な状況から見れば、我々は外道にも及ばない。

現代の仏教徒の根基は外道と比べるべくもなく、外道を蔑視すべきではない。外道は四禅八定を実修し、五欲六塵を真に捨てた実践者である。仏教徒は口先で「放下」を唱えながら、生涯わずかも世間を捨てられない。外道が外道法を修するのは前世の業縁によるもので、例えば前世で禅定を修したが三宝に帰依せず戒律も受けず、現世で正法に遇えなかったためである。故に三宝帰依が重要で、現世で帰依すれば来世も外道法に流れない。五戒を受けず三宝に帰依しなければ根基が不安定で、来世外道に転落し易い。現世で禅定を修さなければ来世も禅定修証に縁遠く、仏法証得の門戸に入れない。仏が示す法をそのまま修し、自らの創意工夫を加えず、仏の教えを完全に遵奉して初めて仏法の利益を得られる。

賢護菩薩が仏に問うた「自性は如何なるものか。如何なる色相をなすか。如何にして此の身を捨て、更に他の身を受けるか」における「自性」とは阿頼耶識(第八識)を指す。阿頼耶識は独自の体性を有し、他の法は全てその顕現である。阿頼耶識の自性・色相、命終時に如何に現色身を捨て新たな色身を受けるか、如何に他の身体を変現するかが、衆生輪廻の核心的な問題である。ここで言う「受」とは、阿頼耶識が死にゆく身体を捨て、新たな色身を顕現・執持・受容する過程を指す。

——生如法師の開示
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