衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月03日    水曜日     第3 回の開示 合計13回の開示

達摩祖師が言った理修と事修の入道方法

「外息諸縁、内心無喘、心如壁、入道可なり」。これは達摩祖師が言った言葉で、この言葉には二通りの解釈があります。一つは修行における定境を言っており、もう一つは暗に第一義諦を指しています。第一義諦から言えば、真如理体如来蔵には外も内もなく、外縁がなく、いかなる一法にも攀縁せず、一切の塵境を了別せず、一切の境界の善悪是非を知らず、そのため自心には思慮もなく、思想もなく、知見もなく、見解もない。それゆえ、一切の外法は心に入れず、心の内からも思想観点見解は出てこず、如来蔵の心は壁のように、内外は通じず、内外もない。それで如来蔵のこのような体性を了知した後、参究して証得すれば、これから入道することができます。これが理修による入道です。

一方、事修による入道というのは、定を修めてから、定の中で参禅して如来蔵を証悟することです。この定は色界初禅定でもよく、初禅以前の欲界未到地定でもよい。この定に達した時、心の念は集中し、参禅し、話頭を参究し、参り通せば悟りを開くことができます。具体的に言えば、定を修めて外界の色塵、声塵、香塵、味塵、触塵に攀縁しなくなり、心の中も他の法塵に攀縁せず、妄想を起こさず、思い出さず、雑多な思慮をしなくなるようにします。心を壁のように修めて、貪欲、嗔怒、愚痴の煩悩も入ってこないし、関係のない六塵も入ってこないようにして、一つの法に集中し、思惟参究して真如の法、如来蔵の法を究め、一つの公案を参究したり、一つの話頭を参究したりします。因縁の時節が具足した時、答えを見つけ、法理を明らかにし、真如心体を証得することができます。

話頭としては、「死体を引っ張るのは誰?」「念仏するのは誰?」「食事をするのは誰?」「歩くのは誰?」などがあります。また、経典の中の一言を思惟参究することもできます。例えば、『楞伽経』の中で仏は「機関木人の如く、機が発して相が起こる」と言っています。この言葉は学ぶ人が本当に悟っているかどうか、悟りが正しいかどうかを検証することができます。悟りが間違っていれば、この言葉の意味は理解できず、「菩薩の挙足下足は皆道場より来たる」という言葉の意味も理解できません。これは『維摩詰経』の中の文句です。話頭はまだたくさんあり、自分の根機に合うものが最もよいです。とにかく、このような定は今の世ではあまり修めにくいです。唐宋朝の頃はほとんどの人がこのような定を持っていたので、悟りが速かったのです。

参禅は必ずしも座っている必要はありません。行住坐臥の中でも参禅でき、いつでもどこでも参禅できます。心を集中させ、他のことに気を取られず、境遇に触れて縁があれば、いつでも悟りに入ることができます。古くから今に至るまで悟った祖師のほとんどは座っている時に悟ったのではなく、座っている時にも悟りにくいです。ある人は人の言葉を聞いて悟り、ある人は音を聞いて悟り、色を見た時に悟る人もいれば、香りを嗅いだ時に悟る人もいます。彼らは皆参禅をある程度参究しており、偶然の機会に触発されて悟りを得ます。また多くの人は師の説法を聞いて悟り、ある人は師に拳を打たれたり棒を振られたり一喝されたりして悟ります。各人の悟りの縁はどれも違うようです。参禅もある程度修めてから参禅することができます。定力が足りないと、強制的に参禅しても役に立ちません。定力が欲界未到地定に達し、行住坐臥の心が乱れず思惟でき、一つの境界に集中できる時が参禅の最良の時期です。この時に参禅すれば疑情が起こり、疑情を解決すれば、すぐに明心悟りを開くことができます。

——生如法師の開示
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