知易行難の鍵は、この「知」がどこに落ち着いているか、どの識の「知」なのかである。もしただ意識に落ち着いているだけなら、「行」については語るべきではない。ただ口先だけで、実行できず、主導権を握れない。意根が知らなければ、内心の無明の暗闇を破ることができず、相応の行動を取ることができず、その「行」はなおさら難しい。意識が五陰無我を知っても、少しも解脱の功徳を受け取ることがない。だから初果の人は絶対に意識が五陰無我を知るだけではなく、意根も必ず知っていなければならない。こうして我見を断つことに功徳があり、受け取ることができ、初歩的な解脱が得られ、凡夫と明確な境界線ができる。もし初果の人が分証解脱で、一分の解脱の功徳を受け取るなら、五陰無我の道理は必ず意根が証得しなければならない。ただ意識が証得しただけでは、功徳を受け取ることができず、意根が分証解脱していないからである。
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