衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年11月13日    火曜日     第2 回の開示 合計153回の開示

意根を修めてこそ根本的な問題を解決できる

陽炎観を証得したとき、どんな境地に遭遇しても、根本的に思惟する必要がなく、直接に通り過ぎる。本当に我見を断つとき、禅定の力が十分なときも、思惟する必要がなく、直接に境地を空にして通り過ぎ、これらのいわゆる境地を正視しない。しかし解悟した人は、禅定が欠けており、慢心も加わって、境地に遭遇したとき、凡夫よりも煩悩が重いかもしれない。

これにより、意根の証得と意識の解釈は、同じ日に語れるものではないことがわかる。禅定があるときとないときの隔たりは、かなり大きい。実修とは何を修めるのか、私たちは知っておくべきだ。本当にいかなる法を証得し、禅定の力がある場合、どんな問題も問題ではなく、どんなことも大したことではない。一旦禅定を失えば、それは別の話になる。大水が堤防を決壊させ、煩悩の堤防を押し流すかもしれない。

修めているかどうかは、事柄から見るべきで、口先の言葉から見るべきではない。言葉は高くて立派に言えるが、行いは卑劣で下劣なことがあり、隔たりはこれほど大きい。言葉や文字は意識に相応しいが、これは修行を代表しない。行為は直接に意根に相応しい。これこそ修行を代表する。だから修行とは意根を修めることで、意根を修めていないときは、本当の修行ではない。すべての知見は少し大きな煩悩、特に生死の前では無力で、知見は根本的に煩悩を抑えられず、更に生死を抑えられない。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

定力があるとき意根は深く感じ取れる

次の記事 次の記事

「煩悩即ち菩提」とは何か