意識の思惟と分析能力が強い場合、法塵の境界をより深く細かく了別でき、智慧が生じやすい。意識の智慧は環境と接触し、深入りした学習と細やかな思惟によって生じ、この智慧によって意根を泥沼から引き離し、光明の大道に向かわせ、極楽の故郷に至らせる。意識の導きがなければ、意根は長期的に泥沼にとらわれ、抜け出せず、五陰身は永遠に生死の輪廻にとらわれるので、意識は非常に重要である。
思惟を明晰にするには、一定の定力が必要で、定力が不足しているとできない。定中での思惟は深く細かく、徐々に、精細に、意根に深く入り込むことができる。深く、細かく、ゆっくりとすればするほど、意根は理解しやすく、また、深細な思量に参加して初めて触発され、真摯な認知があって初めて自身の知見を変え、心行に大きな転変が生じる。意根にも比較的弱い了別慧があり、意識の思惟が深細になれば、意根はそれによって五蘊が無我であることを本当に明瞭に知り、無我的真実の意味を知ることができる。意根はもともとこうは思わなかった。なぜなら、これらの道理を知らないからで、このため意識が意根に対して深入りした細やかな分析を多く行う必要がある。例えば、子供を教育するとき、子供に道理を説かず、無理やりや暴力を振るうだけでは、子供は表面上は従わざるを得ないが、心の奥底では理解しておらず、心から認めることができず、行動を改めることができず、次回もまた同じ過ちを犯す。だから、説得教育で道理を説くことは必ず行わなければならない。道理をより明晰に説けば、子供はより受け入れやすく従順になる。意根に対しても同じである。
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