衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年11月25日    日曜日     第1 回の開示 合計179回の開示

意識を離れて参禅する原理

問:我見を断つことは意識が反復的・深入的・道理に沿った観行であり、意識が意根に五陰の虚妄性を立証し、最終的に意根が承認する過程である。これは立証・説得・再立証・再説得の循環プロセスである。意識が観行の証拠を徐々に意根に提示し、最終的に意根が承認する。この承認も相応と言えるか。我見を断つことも意根との相応か。承認の意味と相応の違いは何か。    

答:意識の反復的かつ深細な思惟観行を通じ、全ての証拠根拠を段階的に意根に提示する。意根が検討を経て証拠が確実と判断した時、確認と承認が成立する。この承認は意根が覚醒し、五陰無我の理に相応したことを示す。証拠が充分で現量境が多ければ多い程、意根の承認と相応が強まる。意根は現量境を認め、非量の想像とは相応しない。意根は証拠を求める。

意根が無我の理に相応すれば「然り」と悟る。意根は自らの五陰の一切が虚妄であることを知らず、証拠が眼前に示され初めてこの理を認める。従来は意識がある程度無我の理を知っていたが、意根は慧が浅く境界了別力不足のため深細な思惟ができなかった。

意識の分析的思惟理解は解悟に属す。定力不足で意根に浸透せず、意根が道理を理解していない状態である。定力が良ければ意識の思惟は深まり、表層的理解を減じ、意識の動きが遅くなり意根の思量作用を喚起する。意根が自ら理解すれば意識も必然的に理解する。定が浅く意識の分析が優勢な場合、意識は容易に理解するが意根に提示する証拠が不足し、意根自身の思量性も不十分で道理を理解できない。意識の分析的働きを減らし意根に思量を委ねれば、五陰無我を証悟できる。

意根の承認作用は極めて強力で、自心・身口意行・業行・業種を変革する。この修行は大いなる近道である。意根の思量を促し現量証得を求めるなら、深い禅定に入り意識の動きを減らす必要がある。これが参究の原理である。歴代の禅師は常に「意識を離れて参禅せよ」と教え、分析や情思意解を禁じたが、その深奥の道理(意根の機能と相応する事実)を必ずしも理解していない。意根の作用は唯識種智の領域に属すが、多くの禅師は唯識種智を生起させていない。故に我見を断つ原理も参禅の原理と同一で、意根を利用しつつ意根に密かに五陰無我性を思量させ、定中の意識が深細に思惟し遅く深く動くことで意根に浸透し、無我性と相応する。

意根の全機能・体性・作用を掘り起こせば、修行は大いなる近道となり、仏道を跳躍的に進み成仏が極めて迅速となる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

無我を証得できない原因

次の記事 次の記事

法は真理で、事実の真相とも呼ばれる

ページのトップへ戻る