衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月25日    日曜日     第2 回の開示 合計180回の開示

法は真理で、事実の真相とも呼ばれる

法とは、事実の真相で、真理である。だから、菩薩が法を説くとき、事実の真相を説き、真理を説かなければならない。そして、一つの事物の事実の真相は一つだけであり、人々が各自の角度から観察するとき、もし正確に誤りなく観察できれば、その観察によって得られる事実の真相はすべて同じで、つまり、事実の真相は一つだけである。もし人々が観察して得た結論が違うと言うなら、それは多くの人が観察に誤りがあり、正しく観察できていないことを示す。正しく観察できていない原因は多く、人によって原因が異なるが、共通の特徴は、観察力が不足していることである。

法を説くことは事実の真相を説くことであるから、この事実の真相は、できるだけ自分自身で証明したものがよい。このようにして説くことが最も説得力があり、最も親近感がある。もし法を説くとき、他人の言論を引用するだけであるとしても、相当に良い弁別力が必要で、他人の言論が言うことが確実に事実の真相であることを弁別し、証明できるようになければならない。私たちは現在、仏が言うことがすべて事実の真相であることだけを確定できるが、自分自身にそれを実際に証明する能力はなく、ただ仏陀の聖言に対する信仰と崇敬だけで、正信と真信には達していない。真信には証量が必要である。では、仏陀以外の人に対する信仰と崇敬には一定のリスクが伴う。正信、証信、真信だけが信頼できる。しかし、証信は非常に非常に難しい。だから、末法時代の衆生の大多数は仰信、盲信、崇信であり、正信や証信、真信ではない。

——生如法師の開示
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