衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月28日    水曜日     第3 回の開示 合計191回の開示

真の参禅における功夫の原理

参禅の際、意識は無念であるべきだが、意根は決して無念であってはならない。無念であれば、単に定を修めるのみで智慧を生じず、悟りを開くことも見性することもできない。

定力が極めて優れている時、意識は一見無念のように見えるが、実際には一つの念が心頭(意根)に懸かっており、意根が参究し、意識が協力する。資料が十分でデータが完備していれば、意根を主として参究する。

データが不足すれば、意根は意識に資料とデータを求め、その後深く参究する。これが真の参究用功の秘訣であり、全てを知れば秘訣ではなくなる。意根が意識に資料を求める時、意識は明らかに思惟分析を行い、その結果を意根に伝達する。意根はこのデータに基づき再び参究する。我々は皆経験するが、表面上は念や思惟がないように見えても、内心深くは沈静化せず、大海の水が表面は静止して平静でも底流が激しい如く、密かに思想の動態が存在する。意根はこのように深密で捉え難く、測り知れない。

参禅による悟りの証得は一定の因縁条件が整って初めて可能であり、意識と意根の状態に依る。故に経験豊かで高度な責任感を持つ禅師は、弟子の因縁が具足しているかを観察する。具足せず禅定が不足すれば、弟子が解悟に留まり一生活力を欠くことを防ぐため指導を控える。異なる禅師の下で悟れば、その智慧は大きく異なり、証量の差も甚だしい。従って如何なる禅師と遇うかは、自らの福徳と因縁の問題を如実に示す。

——生如法師の開示
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