衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月28日    水曜日     第6 回の開示 合計194回の開示

業行は主に意根の心行である

意識がない状況で造作された法は業行か?果報があるか?依然として業行に属し、果報がある。これは業に依る行であり、更に業行に属する。例えば意根が如来蔵と共に投胎し、意識が関与しなくとも、この業行は極めて重大で、全ての業行中最も重要かつ決定的なものであり、衆生の生死の趣向を決定する十二因縁の生死連鎖の一つである。意根に無明があれば必ず生死業行を生じ、必ず投胎する。もし意根と如来蔵の投胎を業行に属さないとすれば、三界世間に業行は存在しないことになる。

意根が如来蔵と共に極楽世界で蓮華を造り、意識の関与がない場合、この業行も極めて大きく絶対的善業行である。これにより衆生は死後極楽国土に趣き五濁悪世の生死の繋縛を離れ、阿弥陀仏の摂受の下で明心見性し、十方世界に飛翔して広く有情を利する。

意根が如来蔵と共に他者を干渉し、加持を施し、他人の夢に入り、警覚を与え、意識がない状態で寝返りを打ち新生児を圧死させるなど、これら全てが業行であり、善・悪・不善不悪の果報を有する。心と行があれば全て業であり果報を伴う。深夜に意識なく寝返りで新生児を圧死させた場合、無意の無記業であるが果報がある。当時の果報は子を失う苦痛であり、後世では無意に圧死される可能性がある。これは苦果であり、不苦不楽の果報ではない。無記業が招く果報は必ずしも不苦不楽ではない。無意とは意識の不在を指すが、意根は存在する。意根も故意ではなく心の意図はないが、行があれば業と果報が生じる。

業は主に意根の業であり、意根に相応する。これは意根の心行が造作する過程である。意根の心行の造作には、時に六識の協力が必要な場合と、六識の関与がない場合があるが、いずれも業行であり果報を伴う。意根が業を造りたくなければ業行は現れず、六識も出生して業を造らない。故に意根が業を造る主人であり、善悪業共にこれに従う。

——生如法師の開示
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