衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月29日    木曜日     第2 回の開示 合計196回の開示

意根と意識のどちらが果報を受ける主体か

ある者は「意根は苦楽を感じないから果報を受ける主体ではなく、意根は報いを受けない」と説く。実際には意根こそが果報を受ける主体であり、六識は単に意根が報いを受ける道具・代理人に過ぎない。六識が存在しない時も衆生は果報の中にあり、六識の有無に関わらず衆生が存在する限り、その存在自体が果報である。色身は果報身であり、意根が色身を我と見做すため、意根に果報身が生じ、報いは意根に及んで意根が報いを受ける。

第一に、入胎・住胎・出胎は意根の果報業報である。投胎入胎は意根の所業であり、如何なる色身と生存環境を得るかは意根が最も重視する事柄である。故に果報は意根の最重視する事柄となる。住胎・出胎および一生の生活環境条件も意根が最も関心を寄せる事柄であり、一生の享福・受苦は意根が最も重視するため、意根が報いを受ける主体となる。次に、死および死後の去向は更に意根が注視する事柄である。臨終時、意根は死を拒んで掙扎し、病苦に苛まれても色身を離れず、息を引き取ることを肯んぜず、家眷を捨てようとしない。植物人間状態でも微細な五陰活動に執着し、苦報を受け続ける。

意根は五陰身の苦を自らの苦とし、六識の苦を自らの苦とし、五陰身・六識の楽を自らの楽とし、五陰身・六識の受を自らの受とする。六識が存在しない時も、意根は一切の苦楽受と果報を承受する。例えば無想定と無想天の楽受は意根が単独で受け、滅尽定の楽受も意根が単独で受ける。意識が存在しなければ意識は受けない。入胎・住胎の苦受は意根が単独で受け、意識が存在しなければ意識は受けない。死と昏迷時の苦受も意根が単独で受け、意識が存在しなければ意識は受けない。睡眠中の安否・快不快は全て意根が単独で受ける。睡眠中に火災で焼死する等の事故があれば、意根が単独で承受し、意識が存在しなければ意識は受けない。

意識が存在する時でさえ、意識のあらゆる受は意根と密接に関連する。意識が受ける一切は意根が受けるのと等しく、意根は意識の覚受を強く気にする。意識は意根の分身であり、意根が所有する助手・道具であるため、意識に報いることは意根に報いることに等しい。意根は決して意識が苦報を受けることを望まず、微細な苦さえも拒む。例えば父母が一家の主であり、子の遭遇する苦楽は父母の苦楽となる。他人が父母に報復する時も子を介して間接的に報いる。子の栄辱・生死は父母と密接に関わる。

意根は意識を出生させる根であり、意識は意根を縁として出生する。意根は意識の父母の如く、意識が報いを受けることは意根が報いを受けることに等しい。故に五陰が苦を受ければ意根は回避し、五陰が楽を受ければ意根は貪愛を捨てない。総じて、意根こそが果報を受ける主体であり、真の報いの主人である。

——生如法師の開示
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意根と意識の関係

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