衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月01日    月曜日     第2 回の開示 合計2回の開示

念話頭、看話頭と参話頭の違い

看話頭は定力を修めることで、心を一言の先頭に留め、文字や言語は現れないようにします。定力が足りないとき、文字や言語が出てきて、心の中で声が絶えずになります。これが念話頭です。つまり定力がないと、心の中で繰り返し一言を繰り返します。定力があるとき、心の中の声と文字の相は消えなければなりません。

看話頭の定力が十分になると、参話頭ができます。この言葉の意味を究めます。文字や言語はほとんど現れず、情思意解しません。これで初めて本当の証悟ができます。解悟ではなくなります。定力が足りない人が悟ろうとするなら、解悟しかできません。話頭とは真如を指し示す一言で、話の中に秘密が含まれており、人に疑情を起こさせます。疑ってから究めれば、その秘密を解くことができ、迷いを破って悟りを開くことができます。いわゆる話頭とは、心がこの言葉の先頭に留まり、この言葉の一文字も心の中に現れないが、心の中には全体の言葉の意味が懸念されていて、意根は参究することを自分が解決しなければならない問題として、捨てたくなく、意識と一緒に暗に心を使い、水が流れて溝ができるとき、秘密を解くことができます。公案を参究することと話頭を参究することは、各人の習慣や好みによって決められます。どちらも人を迷いから救い、悟りを開かせます。

参禅はなぞなぞを当てることではありません。まず深い仏法の基礎理論の素養が必要です。参禅が何のためにあるのか、参究の内容と対象は何なのか、どうやって参究するのか、どこから手をつけるのかを知っていなければなりません。理論の基礎を固め、定力も備えて初めて、話頭を参究したり公案を参究したりできます。公案を参究するとき、公案とは何なのか、公案の内容と対象は何なのか、公案が私たちに何を示してくれるのか、私たちが何を得ることができるのかを知っていなければなりません。また公案の肝心なところはどこにあるのか、公案がなぜこのようなものなのか、また何を説明しているのかを知っていなければなりません。私たちの定力、福徳、因縁がすべて備わったとき、参究する内容に対して疑情が生じます。疑い続けて、水が流れて溝ができるとき、真心である第八識を悟ることができます。これが悟りを開くことです。そのとき、話頭に含まれているすべての秘密がわかります。話頭を参究するのか公案を参究するのかが適切なのは人によって異なります。一般的には、公案の内容は多く、示す方向が比較的明確で、方法は簡潔明快で、考え方は活発で、取り組みやすいです。話頭を参究するか公案を参究するかは、自分が興味を持っていて、疑情が強く、切り口がありそうなものを選んで参究すると比較的早く悟りに至ります。これまでに自分の菩薩の六波羅蜜の修行の程度をチェックし、菩薩の条件が備わっているかどうかを確認し、そしてできるだけ六波羅蜜の条件を整えます。六波羅蜜がまだ修められていないときは、焦らずに参禅しないでください。修行は一つ一つの段階を踏んで進むもので、一歩一歩しっかりと基礎を固めておくことが重要です。基礎がしっかりしていれば、後続の修行は水が流れるように順調で、障害がありません。

——生如法師の開示
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