衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月01日    土曜日     第3 回の開示 合計203回の開示

一切法の証明過程こそ各人の真の智慧を顕す

一切法を証明する過程には、必ず意根が自ら参与する。意根が確実な結果を知りたければ、事実の真相を知らねばならない。意根が事実の真相を知りたければ、証拠が必要である。この証拠を得る過程は苦労を伴う。意識が広範かつ微細に証拠を収集するだけでなく、意根も深い疑情を起こし、共に証拠を探求し共に証明し、意識が収集した証拠を確認しなければならない。この過程は容易ではなく、意識のように軽々しくある法を認可するようなものではない。意根は反復する思想闘争と微細な思量考量を経て、無始劫以来の慣性的認知と不正確な観念を改める必要がある。

意根が真実を見出せば、従来の知見が覆され、意根は衝撃と震動を受け、身心の覚受が甚だしい。この過程を経なければ、実修実証を語る資格はない。禅定を離れればこの過程は完遂できず、実修実証も空論に終わる。

一切法の結果については、仏陀がほぼ答えを提示している。例えば「夢の如し」「幻の如し」「水中の月の如し」「鏡中の像の如し」「陽炎の如し」などがそれである。答えを知っていることが何の奇異か。証明過程こそ各人の真の智慧を顕す。三問すれば三つ答えられぬ解慧は、多少聡明な者でも得られ、珍しくない。

未悟の凡夫は、理解力と知識量に優れ文才弁舌に長けているため、時間をかければ一切法が夢幻の如しとする数万字の論述を書ける。だがこれらの論述に観行の痕跡や実証の痕跡、証明過程は存在しない。にもかかわらず、これを好んで日夜暗記する者がいる。学識が豊富でも何の役に立つのか?

——生如法師の開示
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