衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月05日    金曜日     第1 回の開示 合計21回の開示

父子合集経選講

原文:

大王。最後識滅。名爲死蘊。最初識起。名爲生蘊。

釈:仏は言われました。大王、命の終わりには、識心が皆滅び、五蘊は死蘊と呼ばれます。最初に識心が生まれた時、五蘊は生蘊と呼ばれます。

その中で罪業の大小も、心行により、嗔の程度、嗔心の有无、殺意の有无にかかっています。例えば、麻袋の中に一人の生きた人が入っているとします。一人が無意識にその人を殺しました。麻袋の中が人だと知らず、生命のない物体だと思って、ナイフを突き刺して、人を殺しました。これは故意の殺人とは見なされず、死後も地獄に落ちて報いを受けることはありません。それでも、将来その人に出会った時、その人にも無意識のうちに一回殺されることがありますが、地獄に落ちて悪報を受けるわけではありません。人を殺す時、意識的に殺すか無意識的に殺すかを見ます。意識的に殺すと、殺人罪になり、殺人の業に属します。無意識的に殺すと、完全な殺人行などではないが、因果関係はあります。別の角度から言えば、麻袋の中に木の物体が入っており、人ではないのに、一人が嗔恨に駆られて、他人と思って殺しました。本来頭は生命ではないので、切るのは薪を割るようなものですが、内心に恨みと殺意を抱いて、人として殺したので、この罪は大きいです。罪の大小は用心によります。

もし極めて悪い心でアリを踏み殺したら、その罪も大きいです。嗔心が重すぎるからです。普通の殺とは違います。普通の殺は時々無意識で、時々少し嗔心が混じる場合もありますが、その果報は全く違います。だから法律上の判決も同様で、意識的に殺すか無意識的に殺すかに分けられ、判決の結果も違います。

要するに、修行とは七識の妄心を修めることです。妄心を修めれば、心が清浄になり、阿頼耶識に悪業の種子がなくなり、仏になり、自分の本来の面目を取り戻すことができます。私たちの今の阿頼耶識に含まれる業種は染污があり、無明があり、私たちの七識の心には貪欲、嗔、愚痴の煩悩があります。仏の七識の心は皆清浄で、すべて識を智に転じ、完全に我をなくしました。

——生如法師の開示
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