多くの人が毎日実証について語っていますが、何を「実」というのか。「実」とは実際のことで、実際とは意根の現量の境界のことです。意根がどんな境界に達しているかによって、修為もその境界に達しています。意識の境界は虚で、あっという間に消え去り、空の花が地に着かないようなものです。意根は主導する識で、六識の身口意の行いを統率します。意識の解釈は実証ではない。なぜなら意識は身口意の行いに対して主導権を持たないからです。
実証には意根の証が必要で、意根が証するには禪定を欠くことはできません。禪定が不足していると、意根は意識が提供するデータ資料を深く細かく思量することができず、意識の思いや解釈を十分に理解することができず、したがって証することができず、意識単独の解釈になってしまいます。だから禪定を離れて、実証など語るべきではありません。意識の解釈で意根が証しなければ、解脱の功徳を受け取ることはできず、つまり徳がその地位に相応しくないことになります。
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