我見を断つと一定の解脱功德の受用がある。この解脱の功德の受用は、各人の証量によって一定の差がある。いわゆる解脱功德とは、色身、五蘊に対する心理的な感受と考え方の執着性が軽減、薄くなったことで、多くの事に対して気にならなくなり、あまり気にかけなくなることで、特に禅定がある場合には執着が更に軽く、薄くなることである。これもまた我見を断つ智慧と禅定の程度によって決まり、各人とも異なる。
しかし、重大な事に遭遇した場合、やはり恐れを感じる。その後考えてみると、それほど恐れなくなるが、三果、四果の人でも少しは恐れる。全く恐れないことは不可能である。例えば四果阿羅漢が仏陀のそばについていた場合、象が酔って突っ走ってきたら、彼らも恐れて逃げる。四果で我執を断った人でも酔象を恐れるのはなぜか。なぜなら、彼らは如来藏を証得していないからであり、依然として五蘊身を実在と考え、苦も実在と考える。ただ、これらが多少生滅し続けて変異することを把握できないだけであり、五蘊が虚幻で如来藏の幻化である理を証得していないからである。したがって、彼らは依然として恐怖心を持つ。もし俱解脱の阿羅漢で、甚深の禅定が支えとなっている場合、恐怖心はなく、比較的に安らかで自在である。
もし八地菩薩なら、全く恐怖心を持たない。四地菩薩でも恐れない可能性がある。四地以上の菩薩は、我執を断つだけでなく、一部の法執も断っており、甚深如来藏を証得しており、また四禅八定を有しており、一切の法が幻化相であり、実在ではないことを証得しており、五蘊身も空幻であり、全てが如来藏である。小乗の阿羅漢は如来藏を証得していないので、彼らは五蘊が世間で依然として実在であると考え、それゆえ涅槃に入って苦を避ける。小乗の証果と大乗の証果はレベル上で大きな差がある。小乗で証得される法は究極ではない。大乗法こそは本当の心源を徹底的に把握でき、究極の法である。だから、我見を断つ初果の人は、比較的に大きな事に対してやはり恐れる。なぜなら、この執着身をあまりにも徹底的に断つことはできず、また法執の問題もあるからである。
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