頓悟の前提は漸修であり、いかなる頓悟した人も、長かったり短かったりの時間の漸修過程を経なければならず、漸修がなければ頓悟もない。頓悟したいなら、基礎をしっかり固めなければならず、菩薩の六波羅蜜は基礎と条件である。菩薩になりたいなら、相応の菩薩の条件を備えなければならず、無故に菩薩になれるわけではない。無量劫以来の生死の大事を解決するのは簡単なことではなく、必ず相応の代価を払って初めて成し遂げられる。
これらの条件が達成されれば、必ず頓悟できる。なぜなら、悟りには名額制限がなく、世間法のいいことはすべて限量があり、もしかしたら抜け道やコネを使って初めて成し遂げられるかもしれないが、悟りを開いて明心するこの法はそうではなく、条件を満たす者が誰でも悟ることができ、他人に阻止されることはないからだ。だから必ず自分をよく修め、自分を完璧にし、自分を聖賢に近づけてさらに近づけ、最後に聖賢の仲間入りをすることができる。
今の学仏者には焦りの気持ちがあり、基礎を固めず、六波羅蜜を修めず、直接参禅して、すぐに悟ろうとする。多くの人の考え方は七階だけ欲しく、一階や二階は不要だというものである。世尊は繰り返し菩薩の六波羅蜜、福徳と戒律が非常に重要であること、心性の降伏も極めて重要であることを説いているが、学仏者はこれらを全く気にせず、最後の般若の智慧だけを求めているが、これは得られるはずがない。智慧を得るにはいくつかの前提条件があり、つまり福徳の資糧が具足し、戒律も受け持たなければならず、こうして定が具足し、最後に智慧が生まれる。
私たちは理行や慧行にのみ心を用いて、基礎となる福徳と戒律に心を用いないようなことはできない。そうした修行では成就は不可能である。私たちは必ず仏の言葉を信じ受け入れ、仏が私たちにさせることは必ず努力して実行しなければならない。帰依、戒を受け、戒を守り、心性を降伏させることはとても重要であり、これらの条件を捨てて直接に果を得ようとすることはできない。世俗の染汚れが非常に重い人は、聖人になることは不可能である。修行者と聖人との間の差はあまりにも大きくてはならないので、五戒、八関斎戒、菩薩戒はすべて受け持つべきであり、心が世俗法から少し離れて初めて道を証し、聖人の列に入ることができる。
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