衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年10月06日    土曜日     第4 回の開示 合計28回の開示

三能変識のそれぞれの作用

意識が所縁とするすべての法塵について、意識は直接に変現できず、すべて如来蔵によって変現される。意識が所縁とする法には、意根という仲介が作用する必要があるか?もちろんすべての法は意根がなければ現れない。意根が縁としない法については、意識が生まれて法を了別する理由がない。経には意と法を縁として意識が生じると言われている。

一つの特例として、意根がコップを縁として意識が生じ、そして意識がコップを筆立てと誤認したとする。ある人はこの筆立ては意根が縁としないもので、意識が変現して単独に縁とするものだと言う。考えてみよう。実際に筆立てという法が存在するだろうか?存在しない。筆立ては亀の毛やウサギの角のようなもので、亀には本来毛がない。ないものは空と言え、どんな識心を用いて変現させるのか?もし四大の種子によって変現されるなら、如来蔵によって変現されると言える。もし如来蔵が四大の種子を用いて変現させるなら、その亀の毛は実在する法と言え、皆が肉眼で見えるはずだが、仏でさえ亀の毛やウサギの角は見えない。実在しない法だから見えない。

仮に如来蔵によって変現されない、実在しない法なら、意識はさらに変現できず、何の種子もなく、何の法を変現させる資格もない。同じように、意根や五識も何の法を変現させる資格もない。蛇を縄と誤認し、コップを筆立てと誤認するのは、ただの誤認に過ぎず、病んだ目が空に咲く花を見るようなものだ。ない花を誰が変現できるだろう?ない花を変現する能力などどこにあるだろう?種子を用いて李四を変現すれば、李四は実在するが、種子を用いずに李四を変現すれば、李四は存在しない。病んだ目が空に咲く花を見るようなものだ。そして李四の真偽や年齢、男女の性別を弁別することに何の意味があるだろう?

どの法にも意根がなければ、意識も意識の妄想もない。すべて意根が主導し如来蔵が提供する法で、意根は必ず縁とする。しかし意識が一旦生じれば、必然的にその役割を果たす。さもなければ、いわゆる第三能変識は意味がない。第二能変識は如来蔵に変現させる指揮を担当し、第三能変識は像を現して了別し、思惟分析と処理を担当する。能変とは、直接変えるのではなく、実質はすべて如来蔵が変える。ただ意根と六識が協力して現れるだけで、如来蔵の変現を導くことができるだけだ。意識の作意は意根の作意に影響を与え、意根の作意は如来蔵の作意を導く。したがって三者が和合して初めて法が生じる。意識が比量する時、意根は知り、比量に同意し、変現して思量する法塵を決定し、如来蔵はそれに合わせる。如来蔵は意識の選択に従わず、意根の選択のみに従う。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

六波羅蜜は参禅の基礎

次の記事 次の記事

父子合集経選講

ページのトップへ戻る