衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月02日    水曜日     第1 回の開示 合計291回の開示

意根が自ら証得して初めて真の智慧となる

無夢無想の時の主人公は何処に在るか、これは禅宗第三関の内容であり、第一関第二関を突破したか否かに拘わらず、この内容を詳細に解説したり解釈してはならない。そうすれば意識心の層面に堕し、単なる理解に留まり意根の証得を阻害し、仏法参禅の意義が失われる。第一関第二関を通過し初禅を修得し、陽炎観を証得して初めて禅宗第三関に至り、第三関の参究を開始する。この段階では他者に解説を求めてはならず、この関を突破すれば三果人となる。参究を要するものは全て意根自らが参究し自ら証得しなければならず、他者から聞いただけでは証得できず、仏道修行も継続不可能となる。

自ら第三関の内容を参究し、唯識の理論知識を理解すれば初地に入る。しかし初禅の関は恐らく全ての人を阻む。以前は初禅を修得し煩悩を断除し無明の遮障を破れば初地に入る資格を得ると期待したが、今や希望は無い。現代人は禅定修得が極めて困難で、五欲六塵が人を強く引き付け、実は人間が五欲六塵に執着しすぎている。境界は人に執着せず、人が自ら境界に趣く。誰も五欲から離れようとせず、如何ともし難い。

第一関「死屍を引き摺る者は誰か」の結論を公開しても、それが誰であるかを知っても何の役にも立たず、依然として如何に死屍を引き摺るかを理解できなければ証悟できない。自ら参究せず意根が相応しなければ、全ての解答を知り仏の境界を理解しても無意味である。もし知識が有用なら、我々は経典を読み仏地の境界を研究し全員速やかに成仏できるはずだが、現実は「知る」と「証得」は別物である。一切法が夢幻泡影であると知るだけで証得したと言えるか?仏地の境界を知るだけで仏となれるか?違う。凡夫が四果阿羅漢の修行境界を語っても四果の境地を得たのか?凡夫が成仏方法を講じても仏となったのか?違う。

要約すれば、多くの法は意識で容易に知り理解しても無意味で、意根自らの証得に依らねばならない。証得して初めて智慧と解脱・成仏が可能となる。証得せずに美辞麗句を並べても何の役にも立たず、解脱は得られない。

——生如法師の開示
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