衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月07日    月曜日     第4 回の開示 合計305回の開示

意識と意根の闘い

理智のある人は、よく意識と意根が互いに争い合う状況が発生し、特に仏法を学んで、意識がいくつかの道理を理解した後、さらに両者に衝突や矛盾が生じ、意識が躊躇する状況が起こる。これは意識がいくつかの道理を理解し、理智的な思考を持ち、自分の考え、視点、意見を持つが、意根は自分が歴劫以来の慣性作用の中にあり、そこから抜け出せていないため、習気を固守し、頑固に抵抗し、それによって両者が衝突し、膠着状態になる。

初めて仏法を学ぶ人が、意根が薫習を受けず、仏法を学ぶ利点を理解していない時、逆縁に遭うとすぐに仏法を学ぶことをやめたくなるが、意識心はすでに仏法を学ぶさまざまな利点を感じているため、仏法を学び修行することを好む。それによって両者が衝突し、膠着状態になり、意識は躊躇する。仏法を学びたいと思うのは必ず意識心であり、意識心は道理を理解しているが、意根はまだ道理を理解しておらず、意識心は仏法を学び、他の仏法を学ぶ人々と接触することで、仏法を学ぶ多くの利点を知っている。これは意識心の知っていることである。しかし、意根はまだこの道理をあまり理解していないため、少しでも困難に遭うと、意根は後退し、学ぶことをやめると決める。

学びたくないと思うのは、潜在意識、無意識の意根であり、それは意識心に暗示を与えている。しかし、意識心は道理を理解しているため、比較的断固としており、意根の暗示を顧みない場合もあるし、少し躊躇し、よく考える場合もある。そのため、この二つの心はしばしば争う。いわゆる争いとは、意識心が道理を理解し、何をすべきかを知っているが、意根はそれを知らず、それをしたくないということである。意根には習気があり、安逸を好み、怠惰を好み、多くのことをしたがらず、まだ精進心所法と相応していない。

意識心は法を学んだことで、放逸が悪く、安逸が悪く、快適さを貪るべきではないことを知り、精進して仏法を学ぶことが良いと知っているため、二つの識心の意見が一致せず、両者は思想の争いをし、内心で思量を繰り返す。もちろん、思量を繰り返して決断できないのは意根であり、意識の思惟作用も一緒に働いている。意識の思惟は比較的明らかで観察しやすいが、意根の思量性はなかなか観察しにくいため、意根は暗意識であり、深く潜伏していると言える。最終的な結果は、両者のどちらの力が上回るかによって決まり、もし意識心が十分に薫習されていれば、意根の慣性に耐え、理に基づいて主張し、思惟活動を通じて意根を説得し、意根は仏法を学び続けることを決める。

もし意根の習性が優勢を占めた場合、意識心はどうしようもなく、意根の習性に従順せざるを得ない。結局のところ、意根が主導権を握って決めるのであり、意識が意根を説得できなかった以上、意根の指揮を受けなければならない。意識は「学ばなくてもいいや」と考え、ついに怠惰になってしまう。だから我々の意識心は仏法を多く学び、道理を深く理解し、それによって意根を啓発・教化・説得しなければならない。意根は意識心の思考を通じ、仏法を学ぶことがこういうことだと知り、「道理に適っている、やはり仏法を学ぶべきだ」と理解する。そうすればどんな逆境に遭遇しても、意根は仏法を学び続けると決断する。

学び続けるうちに、意根は道理を理解し「本来こういう良いものだったのか」と知ることで、その習性は徐々に変化していく。意根が理解する道理が多ければ多いほど、最終的には「証得」できるようになる。いわゆる証得とは、意根が「確かにこの通りである」と道理を理解した時に初めて成立する。意根が知らず、ただ意識心だけが知っている状態は浅薄で、決定的な作用を及ぼさないため、証得とは呼べない。

たとえ意識が多くの道理を知っていても、大した作用はない。意根の審査を通過しなければ実行できないからだ。意識が道理を理解した後、報告書を提出すると、意根が審査して「確かにこの道理だ」と認め、決裁を下せば、我々は我見を断ち明心を得る。したがって修行の帰結は意根を修めることにあり、最初は意識心を修めることから始まる。意識心が明らかにした道理が意根に定着した時、あらゆる法を証得できるようになる。

——生如法師の開示
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