衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月07日    月曜日     第5 回の開示 合計306回の開示

七識の放逸

現代人は世俗に執着しすぎるからこそ、世の中のすべてが良いと感じ、世を厭わない心の持ち主は皆そうだ。彼らは世の苦しみと暗い面を見ることができないのは、貪愛が重いからである。人の心が世俗に入るか、世俗を離れるかは、言葉の端々に表れるが、自分では気づかない。衆生は皆世俗に執着するため、六根六識がすべて放逸している。眼識の放逸とは色を随意に見ること、耳識の放逸とは声を随意に聞くこと、鼻識の放逸とは香りを喜び臭いを厭うこと、舌識の放逸とは美味を貪り食すること、身識の放逸とは快適自在を求めること、意識の放逸とは散乱・昏沈・掉挙すること、意根の放逸とは処々に攀縁し執着することである。阿羅漢たちの六根は決して放逸せず、彼らは決して見聞嗅嘗触せず、意識も乱れて思わない。

人によっては常に飲食を好み美味を求めるが、それは舌識と意識の共同放逸である。人によっては常に香りを嗅ぐのを好むが、それは鼻識と意識の共同放逸である。人によっては常に良い衣服を着て良い寝台に住み、すべてが快適であることを求めるが、それは身識と意識の共同放逸である。人によっては常に過去を回想し未来に攀縁するが、それは意識心の放逸である。人によっては常に事事に攀縁するが、それは意根の放逸である。私たちの第八識を見習うがよい。何一つ好むところなく、心は常に定にあり、貪る時もなく瞋る時もなく痴る時もなく、我見もなく、また主導せず、縁に随って日を過ごし、また過ごすべき日もない。

——生如法師の開示
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