無記の心行とは、善業にも悪業にも属さない心行であり、これらの心行は善業にも悪業にも記入されない。例えば、第八識のすべての心行は善悪業に分類できず、第八識にどんな心行があっても、業種に蓄積されず、果報もない。
では、意根の心行は業種に蓄積され、善悪の果報があるのか。『楞厳経』によると、無始劫以前は、生命体には第八識と意根の二つの識しかなかった。意根には無明があり、善悪の心所法もあるが、意根の心行は表現できず、自ら業行を造ることができないため、業種がなく、善悪の果報もない。
やがて、第八識が意根の外への攀縁により、器世間と六識五蘊身を生み出し、これによって業行が生じ、第八識は業行を記録し、業種に蓄積し始め、五蘊身には善悪の果報が生じるようになった。しかし、六識のこれらの業行は、完全に意根の無明と善悪の心行によって指使され、影響を受けるものである。意根自身は善悪の心行を持っていて、六識に善悪の業を造らせることができるが、自らは何らの業行を造ることができないため、無記と定められる。無記であっても、意根には善悪の心所法があり、六識に善悪の業を造らせることができる。
六識のすべての心行は、業行に属し、業種に蓄積され、果報がある。善な心行、悪な心行、不善不悪な心行を含む。意根が夜に五蘊が睡眠している間のすべての心行は、業種に蓄積されず、果報もない。たとえ眠っている間に夢を見て、夢の中で善悪の業を造ったとしても、業種に蓄積されず、果報もない。しかし、意根の心行は六識の行動に影響を与えることができ、善悪の業の主導的かつ主要な要因であり、業を造る主人であるため、実際に果報を受けるのはやはり意根である。表面上は確かに六識が果報を受けているように見えるが、実質的には意根が果報を受けている。六識は滅びることができ、新しいものに入れ替えることができる。六識がない状態も果報身であり、例えば眠っているとき、死んだとき、無想定のとき、昏迷しているとき、滅尽定のときなどは、すべて意根が単独で果報を受ける。
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