衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月17日    木曜日     第2 回の開示 合計326回の開示

周利槃陀伽の修定と果証の啓示

世間法に「心を一箇所に制し、何事も成し遂げられる」という言葉がある。試しに考えてみよう。錐の先が地面に刺さる方が深いのか、それとも板が地面に刺さる方が深いのか。答えは明らかに錐の先が深く刺さる。深く禅定を修めるのもこの理である。心を一つの境地に住まわせ、心の力を一つに集中させて分散させず、定まった心を深くし、一つの義理を細かく思惟すれば、その義理を貫通し、知恵を生じることができる。禅定がないとき、心はその板のように、面積が広く、力が分散して、土の中に深く入ることができない。禅定を修めるとは、心を一箇所に縁らせ、精力を集中させることであり、こうすれば何事も成し遂げられる。

修定に関する特別な例があり、心念が専一で定力が深ければ、仏法を証得し、知恵を獲得できることを証明している。釈迦仏には周利槃陀伽という弟子がいた。前世の業縁による果報で、頭が非常に鈍く、何を学んでも前のことを忘れ、学ぶ前のことを忘れ、一言を学んでも一言を忘れてしまった。世尊は彼の愚かさを見て憐れみを抱き、「掃帚」という二文字を唸るように教えた。周利槃陀伽は毎日何をしているときでも、心の中で「掃帚」という二文字を唸り、やがて心が清浄になり、禅定の中で小乗の理を思惟することができ、最終的に四果の阿羅漢を証得した。周利槃陀伽は「掃帚」と唸り、心に雑念を抱かず、この定力で世尊が説いた仏法の道理を思惟して果を証得した。だから私たちも禅定を修めるときは、心を一つの境地に住まわせ、心を一つの念に縁らせ、長い間、絶えず続ければ、定力が生じ、最終的に観行思惟に成功することができる。この一つの境地、一つの念は、一句の仏号、一つの呪文、または一部の短い経典でもよい。何をしているときでも心の中には経呪や念仏があり、人間界への貪欲や執着を捨てれば、定力は必ず生じる。

——生如法師の開示
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