世間の法において裁判官を務めるには、裁判する内容について精通していなければなりません。つまり、その仕事に詳しくなければなりません。例えば、大学教授の教え方のレベルを評価するには、自らの学識レベルがその大学教授より高いか、少なくとも同等でなければなりません。大学生の論文のレベルを評価するには、大学の教師でなければなりません。仏法の修証において、一人の人が悟りを得たかどうか、性を見いだしたかどうかを判断するには、まず自らが心を明らかにし、性を見いだした人でなければなりません。その道を歩いてきて、その道に精通していなければ、他人が歩んでいる道が正しいかどうかを知ることができず、他人がどの位置にいるかも知ることができません。仏法について判断するには、最低限、選択法眼が必要です。できれば、主な仏法についてあまり多くの疑問がない状態で、さらに望ましいことには、その法を証得していることです。そうした程度まで修めた人は少ないです。他人が証果を得たかどうかを判断するには、まず自ら証果を得なければなりません。初果を証得しなければ、疑いを断つことができません。自分自身が証果を得たかどうか、師が証果を得たかどうか、仏法が衆生に私見と我執を断つことができるかどうかを疑わなければなりません。そうでなければ、他人を判断することができません。自らに目盛りがないときには、他の物を測ることはできません。
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