意根が如来藏のような捨受であるなら、如来藏と同じように一切の境界に対して如如不動で、どんな境界が現前しても、良い境界を取らず、悪い境界を捨てず、心中で境界の善悪を分别せず、六識に喜びや嫌悪の貪嗔痴の行為を行わせるよう促さなく、ましてや衝動的に行動しないはずである。事に当たって怒髪天を衝くことも、拳を振り、足を蹴ることもなく、また、喜びを表に出し、手を振り、足を踏むこともなく、すべてが平穏で、何に対してもどうでもいいような様子であるはずである。
意根がどんな状況にあってもどうでもいい、捨受であるなら、彼は永遠に主導して六識に貪嗔の業行を行わせることができず、喜び、愛楽、貪愛などの思想感情や、怒り、嫉妬、不平などの思想感情を起こさないはずである。そうであれば、意根には平等性があり、一切の境界に対して心が平等で、偏りがなく、怨親を一律平等に対応し、心の中に怨親の差別がなく、公平で公正である。心の中で極楽浄土を喜ばず、娑婆の穢土を嫌わず、仏に成り、祖になることを好まず、三界を離れて涅槃に入ることを嫌がらない。
意根が捨受であるなら、それ自体が如来藏と同じように解脱しており、善悪の境界がいずれも意根を縛ることができず、一切の境界に対して受けない。これが解脱した心である。しかし、実際の状況はそうではない。意根の貪嗔痴の煩悩は非常に重く、貪欲の心が抜け出せず、嗔心によって自救できず、三界法、特に三悪道にしっかりと縛られ、離脱できない。だから、意根は捨受だけではなく、三受がすべてあり、捨受の時は少ない。
いくつかのことに対して、意識はとても我慢したいと思うが、結局我慢できず、感情が爆発する。コントロールできない。これはどんな受けで、誰の受けであるか。それは苦楽受で、意根の受けである。このとき、意識は理性的で、ずっと意根を抑え、意根を制御し、意根に我慢し、発作しないようにさせているが、意根は結局我慢できず、やはり発作する。もしこのとき意根が捨受であるなら、意識は抑制や抑圧する必要がなく、平穏で過ぎ去り、感情がなく、何の極端なことも起こらず、想像を絶するような結果が現れることはない。
多くの場合、わけがわからないような感情的な状態になる。嬉しいかどうか、不嬉しいかどうかに関係なく、意識はどうしてそうなるのかわからず、嬉しさや不嬉しさがどこから来るのかを知らない。意識は時に原因を考えようとするが、時にはどう考えてもわからない。なぜなら、意根は本当に理解し難いからである。
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