宋の時代、蘇東坡と了元仏印禅師は親友で、よく共に仏法を論じた。ある日仏印禅師が「仏法の見解を比べ、負けた方が品物を没収しよう」と提案し、蘇東坡が承諾した。禅師が先に「貴方は仏の如し」と言うと、蘇東坡は「貴方は糞の山の如し」と返した。すると禅師は「貴方が負けた」と言い、蘇東坡の腰の玉帯を解いて没収した。何故蘇東坡が負けたのか?
仏印禅師は悟りを開き、自らの如来蔵の存在と作用を照見でき、衆生の身中の如来蔵も了知していた。故に一切衆生を仏と見做した。一方、蘇東坡は未悟で自他共の如来蔵と仏性を理解せず、外相に執着し禅師を糞桶と見做した。これは蘇東坡の心が清浄でなく、諸法の実相を見ていない証である。
仏印禅師は智慧を持ち、相手の相を仏相に変え、心で仏を変じることで仏に近づき成仏が速やかである。蘇東坡は文才に優れていたが、口頭禅が多く実修が足りず、その世では悟れなかった。明代に著名な禅師として転生したが、依然として文才は良いものの智慧は高くならなかった。前世の文豪の習気が続き、実修が不十分だったためである。
蘇東坡の意根が禅師の相を悪相と執着し、意識心が悪相と分別したことは、蘇東坡の意根と意識心が共に染汚され、第八識から現れた二つの心の種子が染汚されていることを示す。これは蘇東坡が二つの識心を修行で清めず、識心が転換せず、内心が依然として不浄であることを意味する。意根が他者の欠点を執着すればする程、自らが染汚を受け、理由無く自心を汚す。何苦しむ必要があるか。染汚を受けた後、染汚種子は第八識に蓄積され、将来第八識が現す識種は全て染汚不浄となる。何時清浄を回復できるだろうか。自ら汚したものは自ら清掃せねばならず、煩雑で苦悩も多い。常に他者の欠点に執着せず、長所を見るべきである。内心の相が善相となれば、自心は善相の影響を受け、心は善へと転じ、第八識に蓄えられるのは善種子となり、識心は善となる。このように修行すれば、善に近づく程仏に近づける。
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