衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月15日    月曜日     第1 回の開示 合計59回の開示

一切の法は自ら証得して初めて疑いなく確認できる

一切の法を自ら証得し、現量で観察できることは、何よりも重要である。仏陀が自ら口にした言葉であっても、自ら観察し実証してこそ、最後に疑いなく確認できる。自ら証験した理は事実であり、事実は仏陀の言葉よりも信頼できる。仏陀が自ら口にした言葉は流布している仏経よりも信頼できる。なぜなら仏経は既に他の人の口と手を借りて、転述に属するからである。仏経は等覚菩薩の論よりも信頼でき、等覚菩薩の論は他の菩薩の論よりも信頼でき、他の大菩薩の論は凡夫の言葉よりも信頼できる。結局のところ、経論がいかに信頼できようとも、実証ほど信頼できるものはない。

しかし今、仏陀が自ら法を伝えに来ても、すべての衆生は仏経を信じ受けるしかなく、仏陀が自ら口にした言葉を信じ受けることはできない。なぜなら、仏陀が世に降り立ったことを知らず、自分にも法義の真偽を弁別する智慧がないからである。そのため、信じるのは盲信や崇拝に過ぎず、証信でも真信でもなく、仏陀の名声や威光を信じているだけである。もし衆生が仏陀が自ら娑婆世界に来て法を伝えることを信じるなら、衆生は現れた仏陀像の仏陀が言うことを信じ、必ずしも仏経を信じる必要はない。たとえ仏経が非常に正しいものであっても。これは衆生が仏陀やその説いた法に対して盲信や崇信であり、証信ではないことを示している。もし仏陀像を持つ人の説く法を信じるなら、魔の王マーラが仏陀像を現して法を伝えたら、どう対処すべきか?それでも完全に信じてしまえば、そして引きずられてしまい、生死に沈み、解脱できない。

だから、千言万語を尽くしても、実証だけが最も信頼できる。事実だけを信じ、真理だけを信じることは、すべての人が従うべき準則である。しかし真理を証得することは極めて難しく、極めて大きな福徳と智慧が必要である。だから衆生はやむを得ず他の人の言葉を信じざるを得ない。これもやむを得ないことである。それゆえ仏陀は臨終の時、弟子たちに何度も注意して、四依四不依を守るように言った。この四依四不依が極めて難しいことが分かる。ほぼ99パーセントの人ができない。福徳、禅定、智慧の欠如のためである。

一方、実証を信じると言うと、一部の我慢の強い人々は、自分の推論や解釈だけを信じ、これが自ら証得したものだと考え、実証者の言うことをもう信じなくなり、ますます傲慢になり、最後には自らを欺き人をも欺き、やはり法の利益を得られない。末法の時代に仏教を学ぶ現象は、仏が来ても難しい。衆生は左か右、盲信か傲慢で過度に自信過剰、智慧の足りない人は適切な尺度をつかむことが難しく、比較的適切な度を把握することが難しい。言い換えれば、世の医師も手を拱いてどうしようもない。

——生如法師の開示
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