意根に想と念がないと言う人がいるが、八つの識には皆作意、触、受、想、思の心所があり、第八識にすら想がある。意根の執取性がそれほど強いのに、どうして想がないだろうか?眼、耳、鼻、舌、身の五識にも想があり、執取性もある。意根にどうして想がないと言えようか?もし意根に想がなく、了別や執取性がなければ、意根は想によって更に決定や選択をすることができず、後の法はどうして生じることができるだろうか?だから意根には必ず想心所があり、すべての法が心中に現れ、世俗界の生存を維持することができる。滅尽定の中でのみ、意根は想心所を滅ぼし、安らかに入定することができ、この定の中で意根は思心所を滅ぼし、五陰身を滅ぼし、無余涅槃に入り、三界から解脱する。
念について言えば、第八識にも念がある。六祖は『壇経』の中で、真如は念がないけれども全てを念ずると言っている。第八識自体には念がないが、すべての法は第八識によって念ずるものであり、第八識には七つの識のような心識の活動はない。『八識規矩頌』の中では眼、耳、鼻、舌、身の五識にも念があり、五塵境を念ずると言っている。意根は五識よりもずっと活発で機敏なのだから、念があるはずであり、五識よりも愚鈍で、融通が利かないことはありえない。
もし意根に念がなく、何の法も念ずることがなければ、第八識は意根に合わせて意識や五識を生じさせ、意根の考えに従って造作したり、他のすべての法を生じさせることができない。意根が法を念ずる時、第八識は意根の念と選択に合わせて意識を生じさせて了別させたり、思い出させたり、想像させたり、分析判断推理思惟させたりする。意根の念がなければ、意識は何もできず、意識さえ生じさせることができない。
意根の念の作用として、たとえば意根がお金持ちになりたいと念ずれば、意識は頭を絞ってお金持ちになる方法を考え、どんなチャンスも逃さない。意根にこのような心がなければ、意識はこのように造作しない。本当の修行者の意根にはこのような念がないので、心は清浄である。しかし修行者の意根には修道の念があり、いつも修行を念ずる。意識の中にはいつも仏法がある。ある人は意根が出家して修道したいと念ずれば、意識は常に出家の準備をする。ある人は意根が非常に極楽世界に往生したいと念ずれば、いつも念仏している。意識の中にはいつも仏号があり、声を出しても出さなくても、時至を予知し、阿弥陀仏が来て頭を撫でて慰めてくれる感応さえある。
もし意根がある人を想い、いつもその人を念ずれば、意識の中にその人の姿が現れ、夢にさえその人を見ることがある。たまには昼間でもその人と偶然出会うこともある。これは全て意根が念ずるもので、如来蔵も少なからず意根を助けている。意根がある人事を気にかければ、夜になって眠れなくなったり、眠りが浅くなったりする。意根に心配事があれば、意識は完全に滅ぼすことができず、いつも生じて意根のためにいくつかのことを考えなければならない。朝になっても意根は意識を促して早く起きさせ、何かを遅れないようにする。
念の定義概念は、過去の人や事を念ずるだけでなく、将来現れる人や事、ない人や事も含む。意根が念ずれば念ずるほど、人が現れ、事が起こる。このような状況は誰にでも起こる。俗語で「曹操を言えば曹操が現れる」と言うように、ある人を念ずれば、その人が現れ、ある事を念ずれば、その事が起こる。心の中で何かを望めば、それが現れる。なぜこのようになるのか?やはり如来蔵が意根を理解し、意根に気遣い、可能な限り、如来蔵は意根の念ずることを無駄にしない。悪いことを念ずっても、悪いことが同様に起こる。だからある年寄りは子供たちに「不吉なことを言わないで、心の中にも不吉なことを考えないで、何事も良い方向に考えなさい」と言う。
悪口や悪い呪いは、意根による人への呪いで、心力が強ければ実現することもある。未来への渇望も念心所の範囲である。念力が強く、福徳が十分であれば、念ずる人事は必ず現れる。願いが全て叶う、思い通りになるのは全て念力の作用である。後ろに如来蔵がこれらの念を実現するのを助けているので、意根は必ず良いことや善いことを念ずるべきで、良いことが現れ、善い願いが実現する。
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