意根を変えるには、たぶん一度の重大な事故で十分に意根を以前と大きく変えることができる。信じないなら試してみて。火遊びをして重度のやけどをしたら、二度と火遊びをしないことを保証する。スピードを出しすぎて溝に落ちて骨折したら、二度とスピードを出しすぎて走らない。「一度蛇に咬まれれば十年間ヘビを恐れる」というのはこの意味である。
重大な出来事を経験した後、一部の人は後遺症を残す。たとえば、他人が似たようなことを言うと、意根の心理はパニックになり、恐れ、震える。その他にも様々な状況があり、意根はもう二度とそれらの人事に直面したくない。ある子供が一度虐待されると、心に深く刻まれ、二度とその人に触れたくなく、その人の名前も聞きたくない。名前を聞くと、心理は恐れて不安になる。
子供は初めて熱いものに触れると自然に避け、寒いときは自然に首をすくめ、体を震わせる。これは意根が生まれながらに寒さと暑さを知っていることで、人に教えられる必要がない。赤ん坊は初めて殴られても、痛いことを知って泣き、痛みを知っている。これも誰も教えていない。赤ん坊は生まれながらに満腹と空腹を知っているので、空腹のときは泣く。そして泣くことも生まれながらにできる。誰も彼にどうやって泣くべきかを教えていない。
赤ん坊のその痛み感について、誰も「これが痛い、このとき泣くべきだ、こんなふうに泣くべきだ」と教えていない。赤ん坊が初めて両親に抱かれて撫でられると、とても気持ちがいいが、誰も赤ん坊に抱かれると気持ちがいい、撫でられると気持ちがいい、これが気持ちいい、こんなふうに気持ちいいを表現すべきだと教えていない。これらは誰も教えていないが、赤ん坊は生まれながらにできる。
須菩提は仏弟子の中で空を解くことが第一で、前世に既に一切の法が空であることを証得していたので、母胎の中でも空を知っていて、生まれたときも空を知っていて、家の感応で所有の財産が全部空になり、そして財産がまた全部現れる。この空は、意根が証得したものである。
あることは六識と五陰が和合して作動しなければ表現できないが、五陰六識は新しいので、学び適応する必要がある。そして人々の学ぶ速さが異なるのは、意根の経験の違いによるものである。
意識が最初に仏教を学ぶとき、全ての人の意識は同じく何も知らないが、やがて差が現れる。ある人は一生学んでも一句の仏号に留まっていたり、仏経を唱える段階に留まっていたりする。ある人は一ヶ月後に禅宗の経典を探して学び、一年後には参禅して悟りを求めたいと思う。たとえば私自身がそうである。なぜこんなに大きな差があるのか?意根の経験が違うこと、仏教を学ぶ時間の長さが違うこと、時間の差は甚だしく無量劫を超えることもあり、仏教を学ぶ差が非常に大きくなる。
人々の差は、意根の差によって引き起こされる。認めるか認めないかに関わらず、これは事実である。事実はあなたが認めるか認めないかを気にするだろうか?事実は誰が認めるか認めないかを気にせず、永遠に変わらない。真理は、たとえ娑婆世界に一人も認める人がいなくても、永遠に真理であり、他人が認めないからといって、真理でなくなることはない。真の仏法は、誰が誹謗しても、仏法は仏法であり、真理は真理である。
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